捨て犬男とノラ猫女:Jul.1
梅雨が明け、太陽は自分が主役だといわんばかりに力を誇示する。毎日暑い。とにかく暑い。賢太の部屋は案の定冷房の効きが悪く、室外機の音もうるさくて、寝不足が続いていた。
最近、バイト先はオアシスだと賢太は感じていた。相変わらずタバコ臭いし、働けば疲れる。しかし何しろ涼しいのだ。フロアは勿論、休憩室もロッカールームも。夏が終わるまで、泊まり込みたいくらいだ。
日曜日の早番。賢太は久しぶりに三原と同じフロアに入った。緑色の蝶ネクタイに昇格してからは、特に指導を受けなくなった。平日よりも慌ただしいフロアで、賢太はそつなく仕事をこなして行く。最近では常連から声をかけられる事も少なくない。篠田や森川のような手際の良さはないが、とにかく丁寧に、確実にと、賢太は心がけている。
「随分頼もしくなったね」
フロアの隅で、三原に声をかけられた。ありがとうございます、と頭を下げる。三原はうんうんと頷き、激励なのか、賢太の肩を叩いた。
「言われた事は、ちゃんとこなせるようになったね。素晴らしい」
笑顔を見せ、休憩頂きますとインカムを入れた後、三原は軽く手を挙げてフロアを出て行った。
――言われた事は、って……
褒められた気がしない。言葉に棘があるように思えた。邪推だろうか。もっと自主性を持てという、遠回しなメッセージだとしたら、一体何をしろと言うのだろう。
「おうい、箱、箱くれよお」
常連の老人が、コースの真ん中辺りで手を振っている。賢太は急いで向かい、確変続きで上機嫌の老人に、頭を下げた。
早番と遅番の繋ぎ目。賢太はフロア中のゴミを集め、集積場に運んだ。大きなポリバケツの並ぶその場所は、賢太にとって悪魔のスペース。ここでは、紡錘形をした漆黒の悪魔に遭遇する可能性が非常に高い。
恐る恐るポリバケツの蓋を開け、何も飛び出してこない事を確認した後、ゴミ袋を詰め込んで行く。最後のひとつを詰め込もうとした瞬間、後ろでガチャリと金属音がした。思わずビクリと肩が上下する。
「おっ、今日もビビってるな」
ニヤニヤと笑っているのは、ゴミ袋を提げた森川。
「ビックリさせなるなよ」
「俺はゴキじゃねえよ……あっ!」
「えっ!? どこ?」
「ウソだよ」
「やめろってマジで!」
「ゴメンゴメン。終わったら何か食いに行こうぜ」
「あ、うん、いいけど、あんまり金ないよ」
「俺も。ま、適当にな」
森川は、よろしくと言ってゴミ袋を置くと、キョロキョロ探るようにわざとらしく周囲に視線を飛ばし、フロアに戻って行った。
店を出て、森川と二人駅前に向かって歩く。風が吹くと、風上にいる森川からタバコの匂いが漂ってきた。自分からも同じ匂いがするのだと思うと、飲食店に入るのが申し訳なくなる。
立ち食いソバ屋に入り、並んでソバをすする。ズルズルという音の合間に、賢太は森川に問いを投げた。
「バイトの自主性って、何だと思う?」
「は? 何いきなり。何の話?」
「今日、三原さんに言われた。言われた事はちゃんとこなせてるって」
「それって褒められたんじゃねえの?」
「いや、何か刺々しかったって言うか、遠回しに自主性を持てって言われた気がして」
「考えすぎでしょ。あの人いっつも刺々しいじゃん。まあ別に意地悪でやってんじゃないと思うけど。言い方だろ。そういう言い方なんだよ」
「ああ、まあ……そうかも」
「そうだよ」
ズズッと最後の一束をすすり上げ、森川はタンブラーの水を喉に流し込む。賢太も四分の一ほど残ったソバをすすり上げた。
「あのさあ、前の職場で言われたんだけど」
音を零し始めた森川に、賢太は視線を移した。いつも通りの笑ったような顔で、空になった皿を見つめている。
「バイトなんてしょせん、犬なんだってさ。社員や客に言われた通り、ただ動いてりゃいいって……そりゃまあ、仕事だからそうするけど」
言葉終わりに、森川は笑いを付けた。しかし決して楽しいわけではないと賢太は理解出来た。箸を止め、水を飲み込んだ後、賢太はふうっと息を吐いた。
「前の店を辞めたのは、それが原因?」
「まあ、それだけじゃないけどな。でもさ、はっきり言う事ねえじゃんって思った。わかってんだよな、そんなの。雇われてる身なんだからさ、好き勝手動けないし、誰かの指示に従って動くしかない。それで充分じゃん……まあだから、あんま気にすんなよ。自主性見せて疎ましく思われたってくだらねえし」
「ああ、うん……だよな」
残ったソバをすすり上げながら、確かに今の自分は犬のようだと賢太は思った。客に呼ばれて駆けつけて、用が済めばそこいら中を歩き回って、また呼ばれて駆けつけて。ニコニコして、人の顔色を窺って。
――犬ほうがいいかもな。犬はご主人様が好きだから、尻尾振って駆けつけるんだから
毛並みの良いダルメシアンを思い出す。フリスビーをキャッチするのが上手かった。躍動する姿を見るのが楽しくて、フリスビーをくわえて駆けて来る姿が可愛くて、散歩がてらよく一緒に遊んだ。今は、誰がフリスビーを投げているのだろう。