Transparent cloud – 3②
廊下に人影は無い。泣こうがわめこうが、誰にも迷惑をかけない。しかしモモは、嗚咽と涙を堪えたまま進んだ。
エレベーターホール。下矢印を押して、およそ2秒。目の前に現れた、いつものがらんどう。
入る。
閉じる。
降下。
停止。
開く。
出る。
居住エリアも無人。モモは居室に向かわず、パティオを目指した。入り口についてすぐ、タブレットに視線を落とす。
デジタル時計は、11時まであと3分。昼食の時間にはまだ早い。誰もいない。そもそも時間に関係なくひとけの無い場所。照度を抑えた空間は、モニターの向こうの景色に似ている。
灰色。それなのに、壁一面の大型モニターは煌びやかなクリスマス気分。
(関係無いのに……季節なんて関係ないのに)
モモの足。ゆっくりと、コーヒーメーカーの前へ。カップ8分目までコーヒーを注ぎ、スティックシュガーを2本投入。掻き混ぜながらテーブルに向かい、椅子に腰を下ろす前にひと口。
「……甘い」
カップを置いて正面に視線を。ため息の向こうで、モニターの画像が切り替わる。一面の雪景色。冬晴れ。反射。眩しい。作り物なのに、眩しい。
「モモ?」
空間を揺らした声は、穏やかな中音域。振り返らなくても声の主はわかる。モモは視線をモニターに留めたまま、右手を挙げた。
カップにコーヒーを注ぐ気配。
小さく弾けるプラスチック音が2回。
ポーション入りのコーヒーフレッシュを2つ注ぐのは、ミドリの定番。
「今日はもう上がり?」
「うん…………強制的に」
「そう」
ミドリはモモと同じテーブルにはつかず、モモの視線上に置かれたソファーに腰を下ろした。
長めの前髪は、いつも通りセルフレームに触れている。カーキー色のパーカーにジーンズ。
愛用のシリコンゴム製のサンダルを脱ぎ、ミドリはソファーの上であぐらをかいた。
「アオに怒られた?」
「怒られ、てはいない」
「じゃあ何だろう?」
「……わかんない」
「そう」
ミドリの手。大きな手。スラリとした指がコーヒーカップを包んでいる。口元にカップを持ち上げる仕草。その動きにつられ、モモもコーヒーを喉に流し入れた。
ブレインに呼び出された後も、ミドリはグループに留まった。どんな会話が成されたのか、具体的な内容は聞かされていない。
『 猶予を与える。だって 』
ミドリがグループメンバーには伝えたのは、それだけ。
ブレインとの面接後、ミドリは監視業務に携わっていない。時々ふらりとワークスペースに姿を現し、何をするでもなく丸テーブルにつく。しばらくすると出て行く。
その行動が何を意味するのかモモにはわからないが、何をしているのか問い質す勇気もない。ただ、ミドリが【 ここ 】に残った事は、単純に嬉しかった。
モモは、いつの間にか空になったカップを手の平で包み込んだまま、目の前で切り替わる画像を見つめていた。否、視界の隅に居座るミドリを見ていた。
「コーヒー、おかわりする?」
カップを軽く持ち上げたミドリに頷きを。そして迷いなく、モモは腰を持ち上げた。
コーヒーメーカーの前に到着したのは同時。ミドリはモモに場を譲り、カップ置き場の横のガラスケースを覗き込んだ。等間隔にカットされた、粉砂糖まみれの焼き菓子を発見。
「シュトーレンだ……食べる?」
「……ひと切れでいい」
「ホントに?」
「じゃあ2切れ」
トングを器用に使い、真っ白なプレートにシュトーレンを取り分けるミドリ。モモと自分、2人分のプレートとフォーク、そして紙ナプキンをトレイに乗せてテーブルに向かう。
「モモがいて良かった」
「え?」
「男1人で甘い物食べるって、ちょっとアレだろ?」
「……そうかも」
アレが具体的に何を指しているのかわからなかったが、モモは僅かに表情を緩め、席についた。
モモが2切れのシュトーレンを食べ終わる前に、ミドリは4切れのシュトーレンを食べ終えた。
右斜め前に座るミドリ。口元の粉砂糖を払い、コーヒーを2口。長い息を吐き終えて口を開く。
「シュトーレン……昔、父さんに違うって指摘された」
「え?」
「これってドイツのお菓子なんだけど、シュトレンって言うのが正しいんだって」
「お父さん?」
「父さん医者でさ、ドイツ語も勉強してたみたい。昔は必修だったとかで、少し話せるのが自慢で……珍しくクリスマスに家にいると思えば細かいところ突いてきたりして、めんどくさかった」
初めてだった。モモがアイズの家族について耳にするのは。これは、聞いていて良い話なのだろうか。
ミドリは甘味を堪能した満足感に浸っているように見えた。それで思わず口が緩んだのだろうか。
「ねえ……みんなは知ってるの?」
「ん? 何を??」
「お父さんの話」
「どうだったかな? ……監視以外の事話す機会ってあんまりないからね」
表情にも口調にも、誤魔化しの色は見られない。もし聞いても構わないなら、もっとミドリの個人データを集めたい。モモは素直にそう思った。
口元を拭い、テーブルに落ちた粉砂糖を拭き取って、紙ナプキンを小さく折り畳む。
(何から聞けばいいのかな……)
会話のきっかけを思案する間に、小さな電子音が割って入る。タブレットに変化。メール着信。
「早く確認しなよ」
ほんの僅か、レンズの奥でミドリの目元が引き締まる。ミドリの思考が、仕事モードに切り替わったしるし。少し残念。
そう思いながらも、モモはメールボックスを開いた。送信元はアオ。
タイトルは【 これ見といて 】。本文は無い。添付ファイルが1つ。動画。【 さっきの 】という名が付けられていた。
モモは動きを止め、メールの開封を躊躇した。
「どうした? ……話せる事なら話しなよ」
柔らかなミドリの声が、更に柔らかさを増す。これを待っていたのかもしれない。
モモはワークスペースを追い出されるに至った出来事を吐露した。黙したままモモの話を聞き終え、アオから届いた添付ファイルを再生するミドリ。そしてやはり黙して動画を見終え、タブレットをモモに返す。
「アオは、モモを試したんじゃないかな?」
おおよそ15分ぶりに聞いたミドリの声。予想しなかった言葉に、モモの声帯は小さく震える事すらしなかった。
「僕の予想だけど、アオは監視対象者が子供に手を出さないって自信があったんじゃないかな? ……これまで監視を続ける中で、そう感じてたんだと思う。それに、もし仮に監視対象者が子供に危害を加えようとしても、エキスパートがちゃんと止めてくれるって思ったんじゃないかな?」
「何で? ……どうしてそう判断出来るの?」
「動画、再生してごらん」
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