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Transparent cloud - 1③

      *

「モモ? ……ちょっと起きてる?」
「あ……ああ、起きてる、ごめん」
「やめてよ、こっから部屋まで運ぶのイヤだからね私」
 
しかめっ面で言いながら、洗顔フォームを泡立てるアオ。
顔面にフワフワの仮面を作り、手に余った泡をモモに差し出した。
 
モモは、差し出された泡を迷いなく右手に乗せ、壁に貼りついた鏡に左手を伸ばした。
表面の曇りを晴らす寸前、その手を止める。
 
「あの向こうで、何が起きたんだろうね」
「え? ……だからマニュアル通りだって。煙幕で視界を塞いでスタンガンで気絶させて排除だよ」
「そうじゃなくて」
「んん?」
「私達には見えてない部分……何であの人達」
「ストぉっっプ! 終わり。終わりにしないと次に進めない。モモ、まだ試用期間だって事、忘れてない?」
 
フワフワの顔と相反する厳しい響きが、浴室の空気を揺らす。
モモはあえて、アオの顔を確認しなかった。
きっと視線も、声同様厳しいに違いない。
 
アオの視線を防ぐように、顔全体を泡で覆ったモモ。
ゆっくりと手を動かし、目元を圧迫するようにして、止める。
 
「モモ? ……ちょっとモモ、寝ないでよ!」
「寝てないってば!」
「コノヤロウ! こうしてやるッ」
 
アオがシャワーを全開にして攻撃を始める。
皮膚に刺さる柔らかな棘に、モモは笑声を上げた。
しばらくの格闘の末、モモが浴室掃除をするという条件で、シャワー攻撃は終了した。
 
子供じみたやりとりは、意外と体力を消耗する。
しかし、心に積もった何らかの重みはだいぶ流れ去った。
モモは掃除を終え、程よく冷めた体で自室へと向かう。
 
隣を歩くアオ。大あくびを披露した後、力の抜けた声を漏らす。
 
「んじゃ、おやすみ……って、もう5時間ぐらいしか寝らんないじゃん。あーあ……おやすみイ」
「おやすみ」
 
振り返らず自室に消えたアオ。
浴室掃除を手伝ってくれたアオ。
ドライだけど優しいアオ。
 
(ありがとう)
 
見えない背中に律儀な挨拶をし、モモは自室に向かった。
 
「ただいま」
 
音になったのかならなかったのか、自分でもわからない程度の、帰宅の挨拶。
ドアを入って3歩程度進んだ場所で、靴を脱ぐ。
居室は土足可だが、モモは靴を脱いで生活している。
毛足の短いカーペットは、それなりに足に優しい。
それでも靴を履きっぱなしの生活は受け入れ難い。
 
【靴置き場】の右側には小ぶりのクローゼット。
その横に縦長の姿見。まるでビジネスホテルのようで、味気ない。
しかしモモは、この構造を気に入っている。
 
クローゼットから取り出したスリッパに履き替え進む。
室内はまさにビジネスホテルの様相。
壁に備え付けられた棚、デスク、テレビ台。
白一色の寝具で覆われたベッドは、意外と寝心地が良い。
 
モモはため息に合わせ、タブレット式端末をベッドに寝かせた。
バスローブを脱ぎ、パジャマに着替えて洗面室へ。
白い楕円の洗面ボウル。その横に洋式トイレ。
空間は、適度な広さ。
しかし1か所だけ、不自然に物が溢れている。
 
ソフトラバーのランドリーボックス。
 
(バスローブ……溜めちゃったな)
 
浴室に常備されているバスローブが、ランドリーボックスに4着。
アオには、溜めずに返すよう言われている。
浴室の回収ボックスに放り込むだけなのに、何故か忘れてしまう。
 
(……明日でいいね)
 
5着に増えたバスローブを視界から消して、モモは歯ブラシを口に入れた。
 
入念に歯を磨き、タブレットで就寝の報告をし、部屋の照明を落とす。
ミントの香りに満たされた口を半分開け、モモはベッドにダイブした。
仰向けになり、ぐるりと眼球を回す。
壁、デスク、扉付きの本棚。
真っ白な平面達は、闇に染まって、静か。
 
「疲れた…………眠い」
 
乾き切っていない髪が顔に絡みつく。
払ったついでに指先で頭皮を撫で上げる。
想像以上に得られた刺激が心地良い。
 
(もう少し緩くしようかな)
 
ポニーテールのきつさを思案しながら、モモはタオルケットにくるまった。
 
【 ここ 】に来て2ヵ月。
ずっと建物の中にいて、梅雨明けも夏の到来も、モニター越しに感じただけ。
不満はないが、時々不思議な感覚に捕らわれる。
今が現実なのか、それとも夢なのか。
 
(あの時、車の中で眠ったままだったりして……)
 
モモは失笑して寝返りを打った。壁と対面。
 
もう一度仰向けに。天井は、当然ながら無言。
こうしていると、あの日の目覚めを思い出す。
アオとの出会いを思い出す。
 
あの日モモは、【 ここ 】が【 トランスペアレント クラウド 】だと、アオに聞かされた。
しかし噂はやはり噂で、目に見えない巨大な雲は存在しなかった。
とは言え、監視機関である事に違いはない。
監視システムが雲の中に存在していないだけの事。
 
【 ここ 】は、次のような条件に当てはまる人間達を監視する為に創設された。
 
・ 3代に渡り犯罪歴のある家系に生まれた人物。 またその直系
・ 極刑に処されなかったものの、著しく社会に恐怖を与えた人間の直系
・ 複数回性犯罪で逮捕歴のある人間の直系
・ 子供に対する虐待で逮捕歴のある人間の直系
 
簡単に言うと、犯罪者の血を引く人間。
 
親が犯罪者であるからといって子が犯罪者になるとは限らない。
しかし仮に、犯罪者である親を肯定するような教育を受けたとしたら、どうだろうか。
犯罪性を継承する危険は充分にあるのではないか。
 
環境が人間に与える影響は、持って生まれた資質以上に重要。
特に幼少時代に身を置く環境は、人格形成の基礎となる。
それならば、犯罪者の子として産まれた命を、
親が育った環境とは全く異なる場所で、
実親が犯罪者だとは知らず、
誰からも後ろ指さされずに育てられたなら、
その子は、どんな人間に成長するのだろう。
 
【 ここ 】は、【 試されている子供達 】を監視する為の機関。
【子供達】と言っても、既に成人している人間も対象となる。
そして対象者の監視がモモ達の仕事。
 
監視者達は、【 アイズ 】と呼ばれている。
モモが監視していたA区881―831の男。
あの【男の祖父】は、傷害、窃盗、強姦の罪で2度収監された。
そして【男の父親】は、犯罪者の子として少年時代をいじめられて過ごし、10代後半で反社会的勢力に染まった。
複数の女性と関係を持ち、キャバクラ嬢との間に生まれたのが、A区881―831の男。
男を産んで間もなく、キャバクラ嬢は産婦人科医院から姿を消した。
 
【 ここ 】の創設者は男を引き取り、ごく普通の生活を送る夫妻に託し、その成長過程をずっと見守ってきた。
否、監視してきた。いつ、何がきっかけで犯罪の芽が出るかわからない。
もし出てしまったのなら、きっかけは一体何だったのか。
それを知る為には監視が必要。
 
男に【 芽吹き 】の兆候が現れたのは、中学入学後。
クラスメイトに歯並びを指摘されたのがきっかけだった。
 
『 お前の親、歯科矯正知らねえの? 』
 
男の両親として選ばれた夫妻は、男に歯科矯正を薦めていなかった。
然程気にかけなかったのかもしれない。
しかし男にとって、異常に飛び出した八重歯と、緩いハの字を描いた前歯はコンプレックスだった。
男は歯並びを笑ったクラスメイトを殴り、警察沙汰になった。
 
その後、男は常にマスクを着用するようになり、人前で外す事はなかった。
口数も減った。両親との会話も、友人も減り、高校では完全に孤立した。
卒業したものの、就職も進学もしなかった。
 
両親は男に定額の小遣いを与え続け、男は時々風俗に通うようになった。
ついには、そこで知り合ったヘルス嬢の家に転がり込んだ。
 
女は2歳半の男児と暮らすシングルマザー。
昼間は家で、半分寝たような状態で子供の面倒を見る。
そして仕事に出かける夕方、繁華街に設立された夜間保育園に子供を預ける。
そんな生活の繰り返し。
 
そこに男が加わった。生活費は当然増える。
子供が眠れば男は体を求めてくるし、近所の目も気になる。
しかし情が移って出て行けとも言えない。
 
女は心身ともに蝕まれた。誰かに頼りたい。楽になりたい。
この男は、私の願いを聞いてくれるかもしれない。
女は男に懇願した。
 
『 働いて 』
 
男はキレた。
 
『 俺だって働きたいんだよ! 』
 
そう言いながら女を殴った。
 
女は謝った。男も謝った。
月に数回だった喧嘩が週1回となり、ほぼ毎日となり、暴力は子供に飛び火した。
結果、男と女は排除、子供は保護されるに至った。

(正しかったんだよね……あれで、良かったんだよね)
 
モモは過去に一度、他の監視対象者に対して排除要請をかけた。
その時は、排除するべきか否か迷いが生じ、最終判断を下したのはアオだった。
今回は迷わず自分で判断を下したにも関わらず、全く充実感を得られていない。
 
(あれで良かったんだよ……クズじゃん、あの男も女も)
 
脳内で放った汚い言葉に、刹那抱く罪悪感。
しかしまどろみがそれを包み、曖昧な感情に変えてしまう。

『 排除、保護、ともに滞りなく 』

モモの脳内に蘇った音。
熱を感じない、エキスパートの声。
 
エキスパートは、その名の通り専門家。そして熟練者。
監視対象者が犯罪に至る前に、その存在を一時的に社会から排除する。
 
A区881―831の男は、同棲相手に対する暴力と、その子供に対する虐待の疑いで逮捕される可能性があった。
男が犯罪者になれば、育ての親は【 犯罪者の実親 】とされてしまう。
それを防ぎ、子供の安全を確保する為には、あの段階でのエキスパート要請が的確だと、モモは判断した。
 
アイズの指示がなければエキスパートは動かない。
専門の知識も熟練の腕前も、使うか否かはアイズに委ねられている。
 
(子供なのに……子供だから…………?)
 
アイズは全員10代。
10代の子供達が、大人に指示を出す。
 
(それがしてみたかったわけじゃないのに……私、何ですんなり受け入れてるんだろ?)

子供だから?
違う
 
大人だから?
違う
 
知りたい
本当に知りたい?
 
わからない
わからなくてもいい?

首の後ろが熱い。
寝返り。
汗ばんだ肌に微風。
人工の冷気に感謝。
サヨナラ、気化熱。
 
モモの思考回路に睡魔が羽を落とす。
絡まって、回路は停止。
モモは答えを追う事なく、眠りに落ちた。


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