見出し画像

Transparent cloud - 1

目の前には30インチモニター、左右それぞれに20インチモニター。
手元にキーボードはなく、デスクの天板全面はタッチパネルモニター。
背もたれの高い体圧分散型のチェアに座しているのは、黒髪をポニーテールにした少女。

桃木風歌(モモキ フウカ)。通称モモ。
 
正面モニターに映し出されているのは、とある団地の一室。
そこは、A区881―831と呼ばれている部屋。
3階に位置する東向きのベランダ。
8月の真っ只中。古い室外機は必要以上に音を放ち、存在を主張する。
閉じられた窓ガラスの向こう。ピンク色のカーテン。
ネコのキャラクターが薄っすら透けて見える。
 
23時40分。熱り立った声とともに、小さな長方形の影がカーテンにぶつかる。
続いて人影がカーテンを大きく揺らし、ヒステリックな泣き声が空間に響いた。
それを聞くか聞かないかのうちに、モモが平坦な声を放つ。
 
「エキスパート要請」
「やっぱダメだったか……」
 
後方からの声に振り返る事なく、モモは右モニターのカウンターを眼球だけで確認した。
 
「8分後到着予定」
「8分じゃ間に合わない。カットイン」
「要請済み……間に合って、オジサン」
「大丈夫。あそこに付いてるのは百戦錬磨の達人だから」
 
モモの声に応答したのは、青畑美雨(アオハタ ミウ)。通称アオ。
モモの真後ろ、背中合わせで座っている彼女は、モモの目の前で起こっている出来事、下した判断、施した処置、全てを理解している。
 
正面モニター。カーテンの向こう側で2つの影が激しく動き続けている。
成人男性と成人女性。デスクの天板に広がるタッチパネルモニターにも同様の映像。
サーモグラフィで2人の体温を確認する。
 
男の上半身は煮えるマグマのような赤に染まり、怒りの最高潮を示している。
一方、女の顔面、胸腹部は濃い赤。部分的に黒が混ざっている。それが示すのは恐怖。
 
男にしては高音の怒号が止まない。女の体が何度もカーテンにぶつかる。
ガラスを震わせる振動が、隣の部屋の住人をベランダへとおびき寄せた。
初老の女性は身を乗り出し、隣室を覗きながら電話の子機を耳にあてている。通報だ。
モモはタッチパネルの中の老女を、視線の片隅に留めた。
 
(何回も通報してくれたんだよね)
 
老女の顔面は黒と赤が入り混じり、胸部は明るい赤に染まっている。
下半身は青と黒に支配され、電話の子機を握った手は真っ黒。全身に不安を纏っている。
 
(オジサン速く!)
 
モモが願うと同時、左モニターに人影。長身で肩幅の広い中年男性。
 
「来た!」
「見てな。絶対止めてくれるから」
 
左モニターに映し出されているのは、A区881―831の玄関付近。
ドアの上部、天井近くからの映像。
オジサンはモニターの向こうからモモに笑顔を送り、
その直後、顔面を険しさに染め、インターホンを右手で押しながら、左手で激しくドアを叩き始めた。
 
正面モニターに変化。
動き続けていた2つの影と男の怒号がピタリと止まり、ベランダの老女までが動きを止めた。
 
《 警察です! 開けて下さい!! 》
 
ハリのある低い声が廊下に響く。室内にも確実に聞こえる音量。
 
オジサンは鉄製のドアを容赦なく叩き続ける。
左モニターの隅には様子を伺う住人達の姿が映り込み始めた。
 
「モモ、エキスパートは? 到着してる?」
「あと1分」
 
エキスパートの動向はGPSで確認出来る。
右モニターのマップ上、現場に向かう青い点が3つ。
団地の入り口に到着した3つのうち、2つは建物に進入し、1つは別方向に移動した。
オジサンはドアを叩き続けている。
 
正面モニターでピンク色が揺れ、カーテンが乱暴に開けられた。
露わになる男の姿。顔面をアップで映し、モモはその表情に視線を刺した。
データ上では22歳とあるが、もっと老けて見える。
 
べったりとした髪の毛は清潔感が無く、髭も数日剃った様子は無い。
血走った眼と広がった鼻の穴。怒号を閉じ込めている口元。
並びの悪い歯を強く噛み合わせ、頬を数回引きつらせた後、
男は乱暴に窓を開け、何かを外に放り出した。
涙と鼻水まみれの男の子。
ボリュームを上げた泣き声は終わりを予感させない。
異様に甲高い響きが、モモの鼓動を加速させる。
 
《 うるせえっ! 泣くなっつってんだろーがブっ殺すぞ! はあっっ……ったく、そこで黙ってろクソガキっ 》
 
割れそうな勢いでガラスをスライドさせる男の手に女がすがりついた。
男は容赦なく手を振り払い、女は倒れ、モニターから消えた。
 
閉じられたカーテン。窓辺を離れる男の影。
10秒とかからず左モニターの中でドアが開く。
 
《 はい……何スカ? 最近捕まるような事してませんけど? 》
 
ドアチェーンを外さず、男は平静を装い対応。
口元が白い。使い捨てのマスク。
1mmに満たないフィルターは、声の震えを誤魔化せない。
 
《 へえ、捕まるような事したんだ。何やったの? 》
 
オジサンはすかさず足を隙間に差し入れ、左手で外側のドアノブを固く握った。
 
《 いや、たいした事じゃないッス。で? 》
《 うん、ちょっと世間話でもしようかなと思ってさ……お兄さん凄い汗だけど、部屋の中エアコン効いてないの? 》
《 はあ?! おっさんナニモンだよ! 警察じゃねえだろっ!? 》
《 正解。警察のほうが良かったかもなあ 》
《 てめっ……ざけてんじゃねぇぞ!!! 》
 
男がドアに蹴りを入れた途端、左モニターに煙が広がった。

煙幕
怒号
金属音
刹那弾ける光の固まり
短い悲鳴
煙幕 煙幕 煙幕

左モニターの映像をデスクに広げる。
サーモグラフィは、玄関前にいたオジサンの熱を捉えない。
画面の端に映っていた近隣住人の熱も同様。
 
「もういない?! どうなってるの……?」
「マニュアル通り。正面、見てごらん」
 
アオに促されるまま、モモは正面モニターを確認した。
 
ベランダ側の映像。
男の子をしっかりと背中に固定したエキスパートが梯子を降りている。
ズームアウトすると、地上には小型トランポリンのような器具が置かれていた。
エキスパートはそれを使用する事なく地上に辿り着き、男の子を背負ったまま場を去った。
 
――ママ! ママ!!
 
遠去かる泣き声は、モモの胸を軋ませる。
鼓膜の記憶を咳払いで上書き。同時に視線を左モニターへ。
 
煙は薄くなり、大きく開け放たれたドアが見える。
動いているのは、切り落とされたドアチェーンのみ。
廊下には、踵が踏み潰されたスニーカーと、ひっくり返った女物のサンダル。
それに手を伸ばしたのは、紺色の制服を纏った人影。
警察官に見えるが、制服のディテールが異なる。
 
《 排除、保護、ともに滞りなく 》
 
抑揚のない声。
男女の区別をつける余裕もなく、モモは長い息を漏らした。
 
A区881―831に関する報告書をまとめ、ファイルにロックを施しメール送信。
10秒とかからず開封通知が届く。
背もたれに安らぎを求めると同時、鼓膜に触れたのは、アオの声。
 
「お風呂、行く?」
「うん……」
 
時刻は0時ちょうど。事が発生してまだ20分しか経っていない。
しかし、ゆうに数時間が経過したかのような感覚に捕らわれる。
モモがそれを味わうのは2度目。
 
(まだ2回……もう2回)
 
立ち上がり、ゆっくりと首を回す。
 
訪れた眩暈を引き連れながら、モモはワークスペースを出た。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?