LTRA3-1「Disguised Orphan」

 不鮮明ながらも開けていく視界が、最初に捉えたのは、白い天井だった。そして目元には、クリアグリーンの何かが見える。酸素マスクか。
「……助かったんだ……」
誰にも聞こえないほどの声で呟く流雫。しかし、それよりも気になることが有る。
 顔を左に向けると、其処には同じようにベッドに寝かされている少女がいた。
「澪……」
弱々しい声で、最愛の存在の名を呟く流雫。
 ……胸は微かに動いている。生きている。それに安堵する流雫は、意識を失う直前のことを思い出していた。
 ……あの時、扉が閉じられ、二酸化炭素消火設備が作動した。しかし、火災報知器も鳴らなければ煙すら見えなかった。
 誰かが外部から、手動で作動させたことは明白だ。アリスを撃った犯人は用済みだからと処分し、そうじゃない4人は存在が不都合だからと処分する。それが目的だったとしても、何ら不思議ではない。
 あの3人とグルの奴がいる。それも、あの礼拝堂に最初からいなかった奴が。しかし、どっちにしろ澪を殺されかけた恨みが何よりも大きい。
 眠る恋人を見つめる流雫のオッドアイに、ダークブラウンの瞳が映る。
「る……、な……?」
「澪……?」
そう呼んだ流雫の視界は急速に滲む。澪が生きていることへの安堵、そして澪も被害に遭ったことへの怒りが交錯する。
 「……泣かないの……流雫……」
と優しく言った澪の声は、酸素マスクで反響して届かない。ただ、微かに見える唇の動きだけで、そう言っているのが流雫には判る。
 そして、そう言った澪も泣いていた。流雫が生きていることに、安堵が止まらない。
 ……流雫が死ぬ、その恐怖に澪が襲われたのは二度目。しかし、今度も彼は助かった。やはり、全ては美桜が彼を護ったから……。ボブカットの少女は、そう思った。
「ありがと……美桜さん……」
澪は呟いた。

 特に異常は見られなかった2人は、割と早く処置室を出られた。最初に出迎えたのは詩応だった。
「澪……流雫……!」
名を呼んだ少女に、澪は抱きつく。直前まで酸素マスクの世話になっていたとは思えない。
 詩応が駆け付けたから、助かった。そのことを知るのは澪だけだ。
「ありがと……詩応さん……!」
澪は嗚咽混じりの声で囁く。流雫はその様子から目を逸らし、近寄ってくるアルスとハイタッチした。
「サンキュ、アルス」
と流雫は言う。彼が祈りを捧げた通り、ルージェエールの守護が2人を護ったからだ。
 一度だけ微笑んだアルスは、しかし表情を険しくし、女子高生2人に背を向ける。
「何が起きた?」
「……アリスが撃たれて、閉じ込められて消火設備が……」
と、流雫は答える。先刻まで澪に泣き顔を見せていた面影は無い。
 澪が無事である以上、今は冷静に次に進むだけだ。そう、事件の謎を突き詰める。
 消火設備、その単語でアルスは2人が搬送された原因を察した。何者かが窒息死を企んだのだ。
 「誰が設備を動かしたのか……」
「アリスを撃った奴以外に、怪しいのは見なかったか?」
と問うフランス人に、流雫は
「特には……」
と答える。だが、すぐに別の可能性が頭に浮かぶ。
 「ただ、裏方の職員なら誰にも見つからず、消火スイッチを動かせる」
「グルがいたのか……?」
と言ったアルスに、流雫は答える。
「……最初からアリスの秘密を知っていれば、事と次第によっては消火設備を動かすと云うルールを設けることはできる。後は実行するかしないか」
「こうなることは、或る意味計算済み……そう言いたいのか?」
アルスの言葉に、流雫は頷く。そうでもなければ、あの手段に出ないだろう。
「僕とミオがいて、戦うハメになったことは想定外だっただろうけど。だから、消火設備を動かした」
と流雫は言った。
 しかし、その言葉を聞いていたフランス人には、何よりも気懸かりなことが有る。
 「……事が公になった以上、最早あの教会にアリスの居場所は無い。セブもな」
と、淡々と言うアルスは、その裏でほぼ同い年の同郷4人を案じる。
 ……秘密がバレたメスィドール家、マルティネスの死で怪しまれるフリュクティドール家。2つの名家の地位は、保って一両日。そして、その秘密故に命が狙われるリスクは、未だ残っている。
 聖女としての柵が助けを認めないとしても、アルスはその手を無理矢理でも掴むと決めていた。形はどう有れ、この世界に在る命を教団のために粗雑に扱われ、理不尽に奪われてたまるか。

 マルガレーテ・ヴァイスヴォルフ。その名は、単なるアリシアの思いつきだった。仮に、ヴァーグナーが偽名だとすれば。孤児院にいた理由が、本当の孤児だからじゃないとすれば。そして、ヴァイスヴォルフ家の末裔ならば。
 サーチエンジンが吐き出したのは、マルガレーテ・ヴァーグナー・ヴァイスヴォルフと云う名前だった。
 絵画が得意で、国内のコンクールでも入賞経験を持つ。その時のローカルニュースが引っ掛かり、トップに表示されていた。
 ……あの名字は昔からミドルネームだった。孤児院に引き渡された間だけ、姓として名乗っていた。
 孤児院にいたのは2年間。その前にケルンの名家に何か起きたと云う記録は無い。語弊を招く言い方をすれば、孤児を偽装したのか。
 ……ヴァイスヴォルフ家は、マルガレーテをマルティネス家に引き取らせる前提で孤児院に預けた。そして、マルティネスの姓を名乗るようになった後は聖女となることを画策した。しかし、選ばれたのはアデルだった。
 そのアデルが失脚したが、ヴァイスヴォルフはメスィドール家に移ることで、大聖堂とのパイプを維持した。そして今、アリスの正体が日の目に曝されたことで、聖女と総司祭の座は間違い無く空白になる。
 そのタイミングで、マルガレーテ……マルグリットを聖女に選出させれば、年が離れた兄の自分が総司祭の座に就ける。本来就くことになるハズの父は既に他界しているし、マルティネス家は知っての通りだからだ。
 流れとしては出来過ぎだが、そうだとしても不思議ではない。禁断の存在を排除して教団の救世主となり、救世主が総司祭として教団を統べると云う、最高の形で栄光を手に入れられるのだ。
 ……だとしても、全ては此処で妄想しているだけのこと。エビデンスが必要……そう思ったアリシアは、休憩時間の終わり間際にスマートフォンを手にする。相手の声が聞こえると、ロングの赤毛を一度だけ手で雑に梳いた少女は言った。
「パパ、教えてほしいことが……」

 アリスの容体は回復した。しかし入院が必要だ。保護者としてセブとセバス、そしてプリィが残ることになった。弥陀ヶ原は取調と聖女の護衛を兼ねて、一晩一緒にいることになる。
 残る4人は、澪の父が運転するセダンで臨海署へ連行された。時間も時間だし、此処で夜明かしすることになるだろう。或る意味最悪な夜だが、皮肉なことに此処が最も安全だ。
 取調室に入る4人。そのうち直接犯人と戦ったのは流雫と澪だけだ。そのカップルからは、生々しい一部始終が話される。その後で、常願は
「犯人は全員死亡した。原因は窒息死だ。お前たちが生きていたのは奇跡に近い」
と告げる。……或る意味、黒幕の思い通りになったか。
「教会前に残っていた連中は襲撃を支持していた。禁断の存在は粛清されるべきだとな」
と続けた常願に、澪は
「冗談じゃないわ!」
と言葉を被せる。
「人の命を、何だと思ってるの……!?」
怒りと悲しみを交錯させる澪の表情を見ていられない流雫は、机の下でその手を握る。少しでも、こうすることで彼女を宥め、慰めることができるなら。
 そして、思うがままに言った。澪を殺されかけた仕返し、その覚悟を決めるために。
「……人の命が踏み台なら、絶対に踏ませはしない」
 その言葉を、唯一立ったまま壁に寄り掛かりながら翻訳アプリで追っていたアルスは、
「……それか」
と呟く。

 ……ド・ゴール空港で見たもう1人の秘書は、病院に搬送されていない。つまり、最初から礼拝堂にいなかった。元総司祭の鎮魂の儀だ、聖女に近い立場で出席しないのは不自然だ。
 儀式より重要な用件、それは聖女を衆人環視の完璧なタイミングで貶めること。そのために礼拝堂に行かなかった。ただ、消火設備を作動させたのは本人ではないだろう。
 その秘書とは……エルンスト・ギョームことルートヴィヒ・ヴァイスヴォルフ。間違ってはいないハズだ。
 粛清には失敗したが、貶めることができた時点で作戦は成功だろう。大教会に集まった信者が、予想通りの反応を示しているからだ。
 これで、クローンの聖女を踏み台にすることができた。後は自慢の処世術と天性の才能で、聖女一家を裏で操るか、他の手段に出るか。それは判らないが。
 今頃、教会から離れた何処かで作戦の成功を祝っているだろう。穏便にとはいかなかったが、この混乱は過渡期故に避けられないものだ、と思いながら。
 これが全て事実だとしても、ヴァイスヴォルフの企みは必ず崩れる。三つの間違いを犯しているからだ。
 アリスは生きていること。敵に回したのが、どんな陰謀にも決して屈しない少年であること。そして、彼の絶対的な味方が此処に集結していること。
 ふと、アルスのスマートフォンが短い通知を鳴らす。恋人からのメッセージだ。
「マルグリットはヴァイスヴォルフの妹。アリスの後継になる可能性が高い」
「もしそうなると、次期総司祭はマルティネス家ではなく、ヴァイスヴォルフ」
と続いた文字列を凝視するアルス。
「何故そう言える?」
「パパからよ。ダンケルクの関係筋から手に入れたの」
アリシアはそう打ち返した。
 アリスの秘密が知れ渡ったことで、教会内は大騒ぎのようだが、その最中に入手した情報だ。
「……ビンゴか」
とアルスは呟く。
 他の手段……つまり自分の妹を聖女として、当人は総司祭になる。そうすれば、聖女が失脚しない限り、その地位は安泰だ。
 世代交代と言えば聞こえはよいが、実態は単なる乗っ取りだ。それでも、クローンが聖女でいるよりはマシなのか。
 弥陀ヶ原に顔を向けたアルスは、
 「……アリスの秘書、ヴァイスヴォルフが怪しい。教会の件も含め、一連の事件に関与している可能性が極めて高い」
と言った。

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