LTRL2-6「Shenzhen Shock」
バスルームを後にした澪は、普段の彼女に戻っていた。母との落ち着いた時間を過ごした後、他の宿泊客に見つからないよう流雫の部屋へ移る。
今日はひたすら甘えたいと思い、最愛の少年と身体をくっ付けたまま、安堵の溜め息をつく。湿り気が残るボブカットを揺らす少女は、そうして過ごす時間を何よりの幸せに感じていた。昨日もその前の日も会っていたが、それとは別物だ。
来週末に迫った福岡行きの不安も、今は忘れていられる。
「……夏樹くんに、力を貸すことにしたよ」
と言った流雫に、澪は
「流雫なら、そうすると思った」
と返す。特別、驚かなかった。
……最早他人事でいられない、そうしようと思わない。自分が出逢った「敵じゃない」人たちに、テロなんかで死なれてほしくない。そのためなら、力を惜しまない。それだけだ。
宇奈月流雫はそう云う少年だと、澪は誰より知っている。だから、何時だって彼の味方でいる。
同じベッドに潜る流雫と澪。初めてこうしたのは、台風の夜、澪の部屋でだった。一度は拒んだ流雫だったが、
「……来て。いっしょにいて」
と言われ、彼女の願いを聞き入れた。澪が美桜の夢を見たのも、その夜のことだった。
それからは、2人で同じベッドに寝るようになった。特別なことをするワケではないが、自分の隣に最愛の人がいることが、何より安心するからだった。
ほぼ同時に目を閉じる2人が、同時に意識を手放すまで、時間は掛からなかった。
「C'est ce qu'on appelle le choc de Shenzhen.(シェンチェン・ショックだとさ)」
恋人を置いて部屋を出た流雫の耳に、フランス語が聞こえる。ガレットの生地を練りながら、イヤフォン越しに言葉を返す。
「C'est pourquoi son impact est si important.(それだけ影響が……)」
チュン夫妻の死は、VR業界に大きな混乱を招いた。特にヘラクレスが本社を置く深圳では、ポスト・チュンが誰なのか、業界の勢力図がどうなるのかが専らの話題だ。著名な経済アナリストがそう呼んだから、シェンチェン・ショックと呼ばれるようになった。
「Bien sûr. Le charisme est mort.(当然だ。カリスマがいなくなったワケだからな)」
と言ったアルスは、数秒置いて問う。
「Qu'en pensez-vous ?(……お前はどう見てる?)」
「L'inspecteur Midagahara pense que ce n'était pas un accident, et je suis d'accord. Je me demande juste pourquoi il était nécessaire de le tuer.(ミダガハラさんは、事故じゃないと思ってる。僕も同じだ。ただ、何故殺す必要が有ったのか)」
「Midagahara, le détective de l'époque ?(ミダガハラ……あの時の刑事か)」
とアルスは言い、続けた。
「Le tueur l'a-t-il tué parce que l'affaire du VRMMO a créé un problème interne désagréable ?(……VRMMOの件で、内部で厄介な問題が生まれたから口封じか?)」
「S'agit-il d'une histoire courante dans les films de bord d'Ciel France ?(シエルフランスの機内映画でありがちなネタかよ)」
と呆れ口調で言ってみせた流雫は、数秒経って手の動きを止める。
口封じ。ヘラクレスの人間を口封じ?だとすると、原因は……まさか。
事実は小説より奇なり……フランスへの帰郷で使う飛行機で配信される機内映画よりも奇怪なことが……。
「C'est tout.(それだ)」
と言った流雫に、アルスは問う。
「Luna ? Que s'est-il passé ?(ルナ?どうした?)」
「L'affaire VRMMO a mal tourné pour le côté non-Hercules. Le tueur l'a donc tué ?(VRMMOの件で、ヘラクレスじゃない側にとって厄介なことになった。だから殺した?)」
「Qu'est-ce que c'est ?(厄介なこと?何だよ?)」
と問うたアルスに、一度オッドアイの瞳を閉じると、自分自身に突き付けるように言った。
「C'est la vérité sur l'emballement de l'IA et l'accident de perte de données.(……AIの暴走、そしてデータ消失の真相)」
その答えに、アルスは目を見開く。その表情が、流雫には容易に想像できる。
「Saboter les enquêtes internes d'Hercule ?(ヘラクレスの内部調査を妨害する気か!?)」
「Peut-être que l'enquête était déjà terminée et qu'il ne restait plus qu'à la rendre publique. Lorsque les auteurs ont appris cette démarche, ils ont agi. La vérité dérangeante ne doit pas être révélée, alors les assassins les ont-ils tués ?(調査は既に終わっていて、後は公表するだけだったのかも。その動きを知った犯人連中が動いた。不都合な真実が明るみになると困る、だから殺した……)」
「La perte de données a donc été délibérément organisée.(……やはり、データ消失は意図的に仕組まれた事件ってワケか……)」
「Mais je pense que vous vous trompez à moitié en ce qui concerne la résistance au nouveau Dieu que vous avez mentionnée.(でも、アルスが言ってたような、新たな神への抵抗感は、半分間違ってると思う)」
と母国の言語で言った元フランス人の少年に、アルスは問う。
「Quelle est donc, selon vous, la bonne réponse ?(じゃあ、何が正解だと思ってる?)」
「La résistance elle-même a raison. Mais pas parce que le dieu qu'ils vénèrent ne veut pas d'un monde nouveau.(抵抗感そのものは当たってる。ただ、崇める神が新たな世界を望まないからじゃない)」
「L'objectif est au cœur du métavers de la RV. Certains veulent qu'une IA particulière s'assoie sur le trône du créateur du monde.(目的は、VRメタバースの心臓部。世界の創造主の座に鎮座するのが、特定のAIであることを望む連中がいる……)」
「De qui s'agit-il ?(誰だよ?)」
「Peut-être le gouvernement japonais.(恐らくは……日本政府)」
「Encore une fois !(またかよ!?)」
「Ce journaliste a déclaré que l'ATA était financée par une organisation affiliée au gouvernement japonais.(あの記者が言ってたんだ、ATAの出資元は日本政府の関連組織だと)」
「Le journaliste ? Asuna Kagogawa ?(記者?アスナ・カゴガワか?」
「Oui. (うん)」
と流雫は頷く。篭川亜沙……気になることは有るが、情報の提供元としては重要だ。ニュース記者として、別のベクトルから動いているからだ。
……もし彼女が僕や澪を使いたいだけなら、僕もそうする。そう流雫は思っていた。何しろこっちには、強力過ぎる味方がいる。その名は、アルス・プリュヴィオーズ。
「Si Metaverse, une organisation entièrement japonaise, parvient à s'imposer, le Japon pourra rapidement retrouver sa place de superpuissance dans le domaine des technologies de l'information. À cette fin, les capitaux étrangers devraient être éliminés.(……オールジャパン体制のメタバースが覇権を握れば、日本は一気にIT大国の座に返り咲ける。そのためにも、外国資本は排除したい)」
「Mais cela ne signifie pas qu'il faille fermer les VRMMO. Surtout quand Game Changer est une société japonaise ! Le peuple japonais est lésé !(だからと云ってVRMMOを潰すか?特にゲームチェンジャーは日本企業だぞ!?国民が被害を被ってるんだぞ!?)」
「À côté de cela, Hercule ressemble à un défaut de l'IA. C'est une douleur inévitable pour une grande cause. Pas étonnant qu'ils le pensent.(ヘラクレスのAIの欠陥に見せ掛ける。それは壮大な目的のために避けられない痛み。連中はそう思っていても不思議じゃない)」
「Ne soyez pas idiots. Quel est le grand objectif !(ふざけるな。何が壮大な目的だ!!)」
と、ヒートアップしたアルスは声を張り上げる。至極当然の反応だ。
「Je suis d'accord. Si c'est vrai, ce qu'ils font est du terrorisme.(僕もそう思うよ。それが本当なら……やってることはテロそのものだから)」
「Forcer les gens à partager la douleur et à l'endurer au nom d'un avenir meilleur est une vertu. C'est très japonais.(……明るい未来のために痛みを分かち合い、ひたすら我慢することを美徳として国民に強いる。いかにも日本らしいな)」
とアルスは呆れ口調で言う。
愛国者が聞けば胸倉を掴みそうなほどの痛烈な皮肉は、流雫や澪、詩応を慕っているからこそだ。形は違えど一緒に戦ってきた3人が、国家の中枢にいる無能な連中に振り回されて不憫、アルスにはそう思える。
「Bien sûr, il y a des moments où cela est nécessaire. Mais dans le cas du Japon, le retour pour la douleur est trop faible. (無論、それが必要な時も有る。ただ、日本の場合は痛みに対する見返りが、あまりにも少な過ぎる)」
「Mais nous sommes déjà passés par là. Est-ce la possibilité la plus réaliste ?(だが、今までのことが有るからな。それが最も現実的か)」
と続けたアルスに、流雫は
「Quelle que soit la vérité, je ne suis plus surpris.(何が真相だとしても、もう驚かないよ)」
と、悲しげに笑った。
……笑うしかないほど、流雫はテロの脅威と戦ってきて、その記憶に追い詰められている。無意識に澪やアルスを求めているのは、その記憶と常に戦っている証拠でもあった。
アルスは無意識に、大切に思いたい少年の名を呼ぶ。
「Luna.(……ルナ)」
「Mais j'ai tout le monde.(でも、僕にはみんながいるから)」
そう返した流雫の声に、取り繕いや気丈な立ち振る舞いは無い。
……無意識に求める人たちが悲しまないためにも、とにかく僕は生き延びる。何が有っても。二度と、誰一人失わない……。
その思いが、流雫の強さ。そのことを知らない連中は、これまで例外無く足下を掬われ、望まざる結末を迎えてきた。今度も絶対にそうなる。俺が祈るまでもない。ブロンドヘアのフランス人は、そう信じて疑わない。
「Oui.(そうだな)」
とアルスは言い、口角を上げた。
弥陀ヶ原と夏樹は一晩、同じ部屋で過ごした。ゲームの話で盛り上がったが、刑事がフォローしているプレイ動画のストリーマーが夏樹だったことが、互いに最大の驚きだった。
弥陀ヶ原の趣味はゲーム。捜査漬けの日々を発散させるには最適だと思っている。あまり他人のプレイは見ない主義なのだが、唯一面白いと思ったのが、カシューのそれだったのだ。そして今度、2人でオンラインで対戦する約束まで交わしたらしい。
夫の後輩が男子高生と話す様を見ながら
「男同士って、本来ああ云うものよ」
と美雪は娘に言った。寧ろ、流雫が人と仲よくなるきっかけが全て、何らかの事件絡みであることが異常なのだ。
モーニングを終えると、共用リビングで取り調べが始まる。美桜の母は1人、河月湖に行くことにした。午前中だけながら、羽根を伸ばそうとした。
その美雪は昨夜、流雫の母アスタナと通話していた。大学時代、日本に留学していたアスタナと最も仲がよかったのが美雪だった。その互いの子が恋人同士なのは、何の因果か。
ソファに座る流雫の隣には澪、その向かい側には夏樹と弥陀ヶ原。先に口を開いたのは流雫だった。
……早朝にアルスと話したことを淡々と話す少年に、夏樹は背筋に凍て付きを感じた。3日前、高校生4人とニュース記者で話していたことが、高い精度で当たっていたことになるからだ。ただ、違うのはATAの仕業ではなく、ATAの陰に潜んでいる連中の仕業……。
「そうでないと、扇沢さんやヘラクレスの人を狙う理由が無い」
と言って自分が淹れたコーヒーを啜った流雫に、澪は問う。
「……それが当たってたとして、そもそもの目的は……?」
「誰かの私利私欲と云うよりは、日本の国益のため……。そうだとしても、国がサイバーテロを主導しているとすれば……話は別だよ」
と答えた流雫の一連の言葉を、弥陀ヶ原は整理していく。そして夏樹は、今の彼の言葉に怒りを募らせる。……明澄を殺されかけたのだから。国益だの何だの五月蝿い。
同時に、流雫だけは絶対に敵に回さないように、と決めた。尤も、ゲーム以外で彼に敵うハズが無い、とすら思っているが。
その時、澪のスマートフォンが鳴った。母からだ。
「どうし……えっ!?」
声色を急変させた少女に、3人の目が向く。
「……判ったわ。弥陀ヶ原さんに伝えるね。また後で」
と言って通話を切った澪は、
「流雫と香椎さんはここにいて」
と男子高校生2人に言い、弥陀ヶ原に顔を向けた。
「母が、河月湖で水死体を発見したらしくて。今はビジターセンターにいると。連れて行って下さい」
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