LTR AIS 1-4「Subliminal Effect」
翌朝。流雫は室堂家のキッチンに立ちながら、イヤフォンマイク越しにフランス語で
「やっぱりか」
と言った。
料理が好きな流雫は、毎日澪のランチを用意すると決めていた。その時間は、フランスでは夜。アルスにとっては通話しやすい時間だから、早朝は何かと好都合なのだ。
……昨夜浮かんだ疑問の答えは、間違っていなかった。
「やり方は昔から有るが、現実的なアプローチだな」
とアルスは言う。
サブリミナル。一般的には、流れる映像に1フレームだけメッセージを持たせる特殊なコマを挟み、それが幾つも繰り返された動画を見せる。目でそのフレームを認識できなくても、脳は無意識に拾い、記憶に焼き付ける。その連続で、人は洗脳されたようになる。
「でもミオは引っ掛からなかった」
「ミオは最初に違和感に気付いた。その瞬間から、違和感の正体を知ろうと警戒するようになる。無論、他の映像もそう云う目で見る」
とアルスは言い、一呼吸置いて続けた。
「話を聞く限り、デバイスのスペックに助けられたな」
澪のデバイスは、アルカバースをプレイするのに最低限のスペックしか持たない。しかも、省電力モードに設定した影響でパフォーマンスは低下し、デバイスが処理落ちを起こした。
その結果、澪が特殊フレームを目で認識できるほど、アリアサイドが仕組んだフレームが思うように働かなかったことになる。
「……ただ、アリアサイドがサブリミナル効果が無いことに気付いていたとして、次はどう出てくる?」
とアルスは問う。
「判らない。ただ、学校で僕とミオを見る目が、敵を睨むようだったから」
「何故だ?」
「誰よりも似合ってるカップルだからじゃない?」
と答えた流雫に、アルスは
「自慢か?」
と笑うが、同時に安堵していた。
流雫が冗談……確かに流雫と澪は最高のカップルだが……を言えるのは、それだけ流雫が平静でいられる証左だ。ルナは他人が思うほど強くない、それはミオの次に俺が知っている、とアルスは思っている。無論、だからと油断していると簡単に足下を掬われるが。
「その程度ならいいんだけどね」
と言った流雫に、アルスは言った。
「……バスティーユの自爆テロ、実行犯はUPを信仰していた可能性が有る。普段からSNSに、UPを称賛する投稿を続けていたようだ」
「え?」
と声を上げた流雫にアルスは続ける。
「本人は太陽騎士団の信者だと言っていたが、どの地方教会のリストにも名前が無かった」
当局から関与の疑いの一報が届いたことを知ったアリスは、即座に全ての地方教会に該当する名前が無いか洗い出すよう指示した。ルートヴィヒやアリス自身も調査に乗り出し、PCと睨めっこを続けた。その結果がそれだった。
「信仰していないのに、勝手にそう名乗っていた。そして裏ではUPを信仰していた……?」
「信仰がテロの動機になるのは有り得る話だが、全てそうだと一括りにすることは出来ない。だが、無関係の教団を隠れ蓑にする理由が他に見当たらないからな」
とアルスは言った。
「……UP信仰が犯行動機なら、厄介だぞ。宗教関係者からは教団と呼ばれているが、一般的には単なるコミュニティだと思われている。教会も経典も現実に無いからな。個人の暴走として扱われる」
「ゲーム脳ならぬメタバース脳……?ゲーミンググリッドが中心だから、ゲーム脳で間違ってないのか」
「ああ、ゲーム脳で片付けられる。日本だと、早速メタバース規制法が出来るぞ。1日30分まで、未成年は禁止、みたいな」
とアルスは言う。
日本と云う国を嘲笑っているが、具体的な対策を講じず臭い物に蓋をする対応で、税収の口実以外の問題を後回しにし続けてきた。その滑稽さに笑いを禁じ得ないのだ。
「……そろそろ時間だろ?また連絡する」
と言ったアルスが通話を切る。流雫は通話中に準備していた食材をフライパンに乗せる。
「隠れ蓑、か……」
と呟く流雫は、その言葉が引っ掛かり続けていた。
テックスタートの提携先交渉が白紙に戻った。その一報に、黒いポニーテールを束ねた社会人2年目の女子は
「こうなるとは思ってたけど……」
と呟きながら、淹れ立てのコーヒーを喉に流す。
ワンルームの部屋にはPCとローテーブルとベッド、それに小さな棚だけだ。そこには、アクリルの盾が並んでいる。どれもeスポーツ大会で優勝した時のものだ。
踊り子を意味するダンシングドール、その略が当時の登録名ディードール。大学在学中にFPSで名を馳せたが、卒業と同時に引退。今は当時のスポンサーだった中堅ウェブメディアのTMNで、メタバース専門記者として働いている。
ローテーブルの上に置かれたPCには、英語で名前が貼られている。日本語にすると、篭川逢沙。
……アルカバースを展開するベンチャー企業、テックスタートの問題は、エコシステム確立を急いだ結果、巨額の設備投資が財務的リスクとなっていることだ。幸いユーザ数は順調に増えているため、経済活動さえ活発化すれば財務的にも安定してくるだろうが、更なる設備投資も必要になるなど、今後を見据えた資金調達が課題になる。
直近では中国のIT大手が買収に意欲的だったが、条件面での折り合いがつかず、交渉は決裂した。
「次に名乗りを上げるのは……グループM」
と呟いた逢沙は、取材アポを入れた。
……グループM。戦後すぐに創業した農産物の商社を基盤とするコングロマリット。先見の明に長けた経営陣によって、今や日本有数のコングロマリットに成長した。IT関連への出資も行い、最近ではファンドと共同で生成AIに対する数千億円の出資で成功している。
……あくまでもグループの傘に収めるだけ、それがグループMの方針だった。それなら、テックスタートの経営陣が拘る経営の自由度も或る程度維持できる。
次世代の社会を担うVRメタバースの台風の目、テックスタートへの交渉を試みる企業は少なくないが、短期的、中長期的双方でまとまった資金が必要となると、テーブルに着けるのは限られてくる。その筆頭候補の答えが、グループMだった。
アポの返答は、30分のみ対応可能と云うものだった。門戸は開かれた。
「ゲームしかできない女じゃない」
と、大学時代からの合言葉を口にした逢沙は、パンプスを履いた。
四谷のグループM本社を出た逢沙は、大きな手応えを掴んでいた。出迎えた担当によると、テックスタートへの出資に関しては記事を出してよいと云う回答だった。ただ、飛ばし記事として一旦は否定するものの、日を改めて発表する、とのことだ。
同じ目的を持つ競合に対する牽制として飛ばし記事を認める。その役目を得たのは大きい。
「……忙しくなるわね」
と逢沙は呟き、御茶ノ水のオフィスを目指そうとした。その瞬間、メッセージが1通だけ入る。
「今日夕方、会えますか?アルカバースについて、話したいことが有って。御茶ノ水に行きます」
その送り主に、逢沙は口角を上げ
「いいわよ。オフィスで待ってるわ」
とだけ返した。彼女は何か持っている……逢沙はそう思った。
普段は女子3人の帰り道。今日は中心に流雫がいる。とは云え、結奈と彩花には距離感で戸惑っているが。
2人と別れたカップルがTMNのオフィスビルに着いたのは、学校を出て40分後のことだった。逢沙は2人を応接室へ通す。カフェなどでは話しにくい話題だと思ったから、この場所にしたが正解だった。残念なのは、インスタントコーヒーが安っぽいことだけだ。
3人の接点は、ゲームが絡んだちょっとした事件だった。その時偶然知り合った。無論、澪が中心なのだが。
「話は何?」
と問うた逢沙に、澪は早速本題をぶつけた。
「……UP、耳にしたことは有りますか?」
「有るわよ。アルカバースで注目のコミュニティね」
と逢沙は答える。
「フランスでは、バーチャル宗教として見られているようです」
「欧米は宗教色が強いから、そう見るのも間違ってはないわね。……UPが気になるの?」
「はい」
と澪は頷く。
「昨日、アリアと接触しました。ゲーミンググリッドで。そこでの映像に、サブリミナルが使われていたんです」
「サブリミナルは、無意識のうちに深層心理に意識付けさせるための手段。言わば、一種の洗脳。単なるコミュニティの中心なら、そうする理由が無い」
と流雫がコーヒーを飲みながら続く。
「メタバースが専門の逢沙さんなら、何か知ってると思って、こうして……」
「確かに不思議ではあるわね。ただ、今のところは何も無いわ」
と逢沙は答える。しかし、それだけではないハズだと思ったニュース記者の目を見ながら、澪は言う。
「……アリア、同じ学校の人と似てるのが気になって……」
「アバターが似るのは結果論じゃない?何人ユーザがいると思うの?」
と逢沙は言い返す。確かにそれもそうだ。しかし。
「……アリアはAIが生み出したものだと言われてる。しかし、声色から言い方まで、澪は同じだと言ってる。本当にAIなのか、もしAIだとするなら、室町さんとAIの関係が気になる。当然、UPとの関係も」
と流雫が援護に出る。そこに逢沙は、気になる名前を見つける。
「……室町?」
「あたしと同じ東都学園高校の生徒会長で、名前は室町愛理明。……話したことは無いし、知ってるのはそれだけですけど……」
と澪は答える。その瞬間、逢沙は僅かに身震いした。午前中出した手帳を開き、流雫と澪の目を見つめて頷く。
グループMのMは、創業者の名字である室町のこと。そして、確かに室町家には娘がいる。毎年開かれる創業記念パーティーの写真から判ることだ。
逢沙はその写真を探し出し、澪に見せる。流雫もアリアのアバターを並べる。……特徴が一致した。
それだけで断言するのは早いが、愛理明が室町家の末裔ならば。件の取材での出資が決定したとすれば、飛躍した言い方をすればアルカバースが愛理明の手中に収まることになる。
そのアルカバースでコミュニティとされているUPの実態が、フランスで言われているようなバーチャル教団だとすれば、その象徴であるアリアはアルカバースの中心と言える。そしてその正体は、UPが操るAIではなく愛理明。
既に複数の企業や団体が、アルカバースで経済活動を行っている。しかしEFはテックスタートがアルカバース専用に開発したもので、現時点ではベータ版。第三者が新たなグリッドを構えることはできない。
つまり、アリアがいた教会グリッドを設置したのはテックスタート。そしてアリアの活動は認められたもの。この時点で、テックスタートとグループMの間には接点ができていると言える。
愛理明が室町家の令嬢だとしても、女子高生が単独で一つの企業と接点を持つとは思いにくい。愛理明の、アリアの裏に何が潜んでいるのか。
「……UPの目的が最大の問題ね……」
と逢沙は言った。ただ、今の時点でも予想外の収穫の手応えを感じている。それは、ニュース記者の向かい側にいるカップルにとっても同じことだった。
澪の家に帰り着いた2人は、その両親に混ざって他愛ない話をする。この両親は現職刑事と元警官、澪が正義感の塊に見えるのも納得だ。
大人が酒を愉しむ時間になると、高校生は澪の部屋に戻る。2人で宿題を片付けた後、澪は昨日と同じようにアルカバースにログインする。
昨日と同じモードのまま、あの教会グリッドへとミスティを走らせる澪。やがて、目的地に着いた。
「……今日もいるのかな……?」
と澪は言い、ミスティを慎重に進める。
昨日と同じエフェクトを経て現れる聖女アリア。澪は早速問う。
「……聖女アリア。UPの目的は何?」
「UPは、バーチャルとリアルの境界線を超え、共通の理念で新時代の在り方を説く存在」
「新時代の在り方?」
「空想の域を出なかったパラレルワールドが、メタバースとして実現した。それがアルカバース。新たな世界で生きるための規律と知恵を、UPの理念に共感できる者にのみ説く。それは現実世界にも大いに通ずるもの」
とアリアは言う。澪も小声でリピートするが、同時に流雫が文字に起こす。昨日と同じ赤い画面が時折襲うも、澪は意に介さない。
「外国では宗教と言われているけど、本当なの?」
「UPは宗教でもある」
とアリアは言う。流雫はすかさず
「澪、僕に続いて」
と言った。
「かつてのヨーロッパは、宗教こそ社会システムの根幹だった。UPも、アルカバースと云う社会システムの根幹と云う意味では、宗教と呼んだ方が相応しいの?」
UPが宗教だとアリアが認めた、だから流雫は動いた。
「如何にも。その最終目標こそ、リアルとバーチャルの双方で新時代の在り方を説くこと」
とアリアは答える。澪は言った。
「ARIAの最後のAは方舟。そして、UPそのものが方舟と云うワケね」
「その通り。私は其方の知識に興味を示す、賢者ミスティ。UPの一翼にならない?」
しかし、澪はその提案を拒否する。
「あたしにはあたしの信念が有る。愚行だと思われても、今は抱えていたい」
ミスティは頭を下げ、踵を返して教会を去る。
教会を出たと同時にログアウトした澪は、VRデバイスを外すと頭を抱えながら、流雫が用意していた水出し紅茶に手を付けた。
「……赤い刺激が……目に焼き付いて……」
と澪は言い、溜め息をつく。これでも、サブリミナルに陥らないだけマシだと思っている。
「……今日のアリア、昨日とは違った……。愛理明さんじゃない……」
「え……?」
「AIだわ。話し方が僅かに違ったの」
と澪は言う。
「愛理明さんの話し方を完璧にトレースしてるけど、感情が無かった」
「澪に対しての?」
「うん。言ってることは、今日の方が人間っぽいの。でもその口調が、あまりに淡々とし過ぎて。話したことは無いけど、眼中に無い態度は相手にネガティブに思っているから。ロールプレイのためとは云え、昨日より好意的になるとは思えないの」
と澪は言い、紅茶を飲み干す。
元々がマイナスなら、ゼロになることすらプラス。しかし、愛理明が澪に対してプラスに感じる要因は、澪自身見当たらない。
「アリアは、室町さんとAIがその都度演じ分けてる……?」
と流雫は言った。わざわざそうする理由は判らないが、そう思うのが自然だ。
「AIの学習のために、愛理明さんが時々話してるとか?」
「それ以外に理由が無い気がする」
と、澪の問いに答える流雫は、恋人の顔色が落ち着いたのを見て安心する。
「……流雫が気にすることじゃないよ」
と澪は言った。自分がアルカバースにログインしていれば、と思っているのが読めたからだ。
しかし、流雫のように話を的確に記録するだけのスキルを、澪は持っていない。元々VRデバイスが澪のものだから、と云う理由は有れど、これこそ適材適所と云うものだ。
「判ってる」
と流雫は言葉を返した。