LTR AIS 2-1「Better Than Indifference」

 200人近い乗客を乗せた飛行機は、5分だけ遅れて福岡空港に着いた。始発の影響か睡魔に勝てなかった両親の隣で、初めて飛行機に乗った詩応は窓に目を向け、時折雲に隠れる景色を眺めていた。
 九州最大の都市、福岡。日本三大都市には及ばないが、地方都市としては札幌と並び最大級を誇る。
 未だ有名な商業施設も開いていない時間だが、空港や地下鉄に乗り換えて着いた最大の繁華街、博多は既に無数の往来で混雑していた。九州各地の観光への出発ゲートとしての役割を一手に引き受けているだけに、当然のことではあるのだが。
 教団の集会は夕方からだが、明日は北九州で別の集会だ。尤も、詩応はその全てに無関係だったが。教団の絡みとは云え、こうして一家揃って遠出することは滅多に無かった。だからこれは家族旅行と同じだと、伏見家の主は言っていた。
 昼間は家族3人で福岡市内の観光名所を回る。水族館とタワーを中心にしたが、それだけで既に夕方前なのは地理的な問題で移動に時間が掛かるからだ。ただ、それだけでも家族旅行の役割は十分果たした。
 両親とは博多駅前で別れた。近くのホテルを予約してあり、一度チェックインを済ませると再度街へと出る。とは云え何処かに行くワケでもなく、博多駅の屋上から景色を眺めていた。
 博多は空港に近い弊害として建造物の高さ制限が厳しく、比較的低層の建物がフラットに並んでいるのが特徴だ。それ故に高さとしては低くても、割と遠くが見渡せる。
 少し肌寒いが、常にパンツルックだからそこまで寒さを感じない。しかし詩応は、赤いチョーカーの上から首筋に触れた。……寒さからか少し疼く。
 詩応の左首には大きな疵痕が有る。姉の死の真相を追う中で、新幹線の車内で追っ手に首を切られた。数日間生死の境を彷徨った末に一命を取り留めたが、腕に後遺症が残った。
 ただ、これで済んだのはソレイエドールと、何より姉が護ろうとしたからだ、と詩応は今も思っている。そして時々思う。澪こそ、ソレイエドールの転生なのではないかと。
 有り得ないことではあるが、そうでも思わなければ、澪が自分のためにその身を尽くすような慈悲を見せることへの理由が見当たらない。人のために泣き、人のために立ち上がる。誰にでもできることではない。
 ……アタシは一生、室堂澪には頭が上がらない。そして、彼女の背中を護る宇奈月流雫にも。詩応はそう思いつつ、空を見上げた。

 臨時登校、それならわざわざ土曜日ではなく昨日でもよかったのではないか。そう云う生徒の不満が絶えなかった緊急集会は、2時間ほどで終わった。有人が撃たれたことに触れ、担任教師は銃の怖さや危険性を改めて説いていた。
 澪にとっては、或る意味バカにされたように聞こえた。有人が撃たれたのは半ば自業自得だったが、流雫が犯人を仕留めたから愛理明は無事だったと思っている。もしそうでなければ、彼女を保護しようとした悠陽ごと撃たれていても、不思議ではなかったからだ。
 銃には反対の立場であるハズの愛理明も、今回ばかりは何も言わない。何を言ったところで、銃に助けられたと云う現実は変わらないのだ。
 その有人の容態は今のところ安定している。銃弾が身体を貫通し、体内に残っていないことが幸いだった。
 放課後を迎えると、愛理明は家の執事に連れられ有人が収容されている病院へ向かった。白く無機質な個室の端で、ベッドに体を預けたままの有人は
「……宇奈月が先に撃ってれば……」
と毒突いた。そうすれば、自分は撃たれなくて済んだハズだ、と思っている。その視界に移る来客は
「……何故私が狙われたのかしら?」
と問う。
「……アリアの正体がバレたとしか……」
「バレた?まさか」
と目を見開く愛理明に、有人は言った。
「通り魔には思えません。最初から、愛理明様を狙っていたような手口でした」
「誰が私を……」
「アリアの存在を不都合に感じる勢力、それが有力でしょう。ただ、その正体は未だ掴めていません……」
と有人は言う。
 あの事件以降、有人はこの病室から出られないし動けない。ただスマートフォンでSNSを漁るだけだ。しかし、UPについての投稿の傾向は事件前後で変わらない。アリアに言及する投稿も無い。不可解なほど、何も変わっていない。
「しかし、篭川逢沙と云う記者が厄介な記事を書いたために……アルカバースに逆風が吹きそうね」
と言った愛理明は、有人に問う。
「誰が仕掛けたのかしら?」
「想像もつきません」
と有人は答え、右腕として最も便利な言葉を投げる。
「……愛理明様が無事であるだけで、安心しました」
そこに帰結させるしか無かった。
 愛理明は病院を出ると、執事が用意した車に乗る。しかし、釈然としない顔をしていた。室町家の長女に相応しくない顔、そう言われるのは判っている。
 ……有人の言葉に、愛理明は少しの不信感を抱いた。右腕として有能だからこそ、逆に何か隠し通そうとしているようにも思える。それが愛理明のためだとしても、溜飲を下げられるものではない。

 愛理明が去った部屋で、有人はスマートフォンを握る。
「愛理明はUPにとって不都合なのか」
「所詮は人間だ。感情に左右されることほど、AIが誇る常に冷静且つ正確な判断を阻害するものは無い」
「だから愛理明は狙われたのか?」
「そう思うのは自然の流れだ。お前が撃たれることは予想外だったがな」
「まさかとは思うが、愛理明を狙った黒幕は内部にいるのか?」
「人殺しに加担したところで、何のメリットが有る?我々は馬鹿ではない」
文字での遣り取りが延々と続く。その最後に
「UPにとって、アルカバースは媒体に過ぎない。そのことだけは忘れるな」
と、有人の端末にメッセージが届く。
 UPとアルカバースの関係は知らされていた。何も知らないのは愛理明と望明だけだ。だが、室町家には話すことはできない。折角締結されたテックスタートとグループMのパイプを、切断するワケにはいかないのだ。
 厄介なロールプレイを押し付けられたのは、愛理明より俺か。有人は苦笑を禁じ得なかった。

 流雫と澪は、首都タワーにいた。東京のみならず、日本のシンボルとしても知られている。
 どんなに吹っ切れているように見えても、昨日の一件を引き摺っていると思った。だから気晴らしに外出することにしたのだ。
 澪とのデートは色々な場所に行ったが、最近は臨海副都心と新宿で半ば固定されていたから、タワーは2回目だが或る意味新鮮だった。
 トップデッキと呼ばれる特別展望台に立つ2人。澪は、白いデジタルカメラを鞄から取り出した。カードサイズながら写真が印刷できる、巷で人気のアイテムだ。
 何枚か写真を撮ると、流雫とセルフィーする。スマートフォンでは物足りない趣がそこに感じられ、澪にとってはマイブームだ。
 ……色々と思うことは有る。だが、不穏な事件のことは忘れ、今この瞬間の平穏を享受するだけだと、2人は思っている。
「……明日、横浜に行ってみたい」
と流雫は言う。東京は好きだが、偶には違う景色を見てみたいと思っていた。そして、何気なく思ったのが横浜だった。特に海浜部の観光スポットが気になっている。
「決まりだね!」
と澪は即答した。
 帰る前に東京駅に寄った2人は、煉瓦造りの駅舎を見上げる広場で、観光客から少し離れてその景色を眺めていた。こうして何気ない景色を前に同じ時間を過ごす、それが流雫にとっては何より楽しい。
 澪は流雫にカメラを向けたが、不意にレンズを逸らした。
「……何だろ……?」
と呟く。そこには1組の男女がいた。遠目だし、面識も無いが気になる。だから1枚だけ、流雫の背後を隠し撮りしたのだ。
「澪?」
と名を呼んだ流雫の顔が、澪のカメラに鮮明に写る。澪は、すかさずシャッターボタンを押し、
「これはポスターにしないと」
と言って戯ける。流雫は笑った。
 日本人らしくない見た目のスパダリ、その喜楽を独占できるのは、あたしの特権……澪はそう思っていた。

 その後も写真を撮って遊んだ2人は、改めて帰るべく改札を通った。ホームへ上がると同時に、列車が警笛を鳴らしながら入ってくる。しかし、流雫と澪の隣の列で並んでいる男が突然よろけ、人形のように倒れた。
「え……?」
と小さな声を上げると同時に、2人は男に駆け寄った。
 男が並んでいたのは、2階建てのグリーン車の列。座って移動できるようにと座席を増やした代わりにドアは少なく、ドア同士の間隔も広い。介抱するのに乗降客が邪魔になることは無い。
 澪は首筋に触れながら腕時計を見る。秒針が6回動く間に脈は無い。鼻に手を翳してみるも、手に息は掛からない。
 カップル同士目が合う。中腰だった少年はすぐ近くのAED保管箱に走った。駆け寄った駅員が男のジャケットを開き、胸板を露わにする。
 駅員の手に渡ったAEDの自動解析システムは、電気ショックが必要だと判断した。合成音声が周囲に離れるよう指示し、男の身体が跳ねる。その瞬間、周囲が一気に白く染まった。
「逃げろ!!」
誰かが叫んだが遅い。ヤジ馬は我先にと逃げるが、何人もが転ぶ。流雫は反転しながら、澪を半ば覆い被さる形で抱き寄せ、その口と目を手で覆う。
「んんっ!んんんっ!」
澪の苦しそうな声が漏れるが、目を閉じた流雫は手を緩めない。
 鼻を刺すような、しかし塩素とは違った臭いが漂う。流雫は咄嗟に、白い煙の正体が石灰だと思った。
 喉や肺、目に入れば炎症を起こす。ヤジ馬によって取り残される形になった以上、慌てて走って石灰を吸うことになるよりは、こうしている方がマシだと思った。
 1分近くが経って、流雫は恐る恐る目を開けた。白い靄はほぼ晴れていた。周囲は咳とくしゃみの大合唱だが、目を押さえている人もいる。流雫が手を離すと、澪は酸素を求めながら
「な、何が……!」
と声を上げる。その瞬間は見ていたから判るが、隣に置かれたビジネスリュックから白い粉が噴出した。
 「……石灰だ……」
と言った流雫の鼻には、未だほのかに刺激臭が残っている。澪は白くなった目の前の自販機でミネラルウォーターを手に入れ、恋人に渡す。目と口を洗い、濡らしたハンカチで顔を拭く流雫の隣で、澪は問う。
 「何故石灰を……?」
「……テロだけど、殺す目的は無い……」
と流雫は答えた。石灰は短時間で大量に吸引しない限り、死に至る危険は低い。東京駅と云う往来が激しい場所で混乱を引き起こすことが、目的だったように思える。
「……これだけでも、社会に与えるダメージは小さくない。大崎駅の塩素ガス騒ぎも有る中で、見えない敵への脅威が増すハズ」
「それがUPの仕業だとすると……」
と澪は言う。しかし、流雫は数秒の沈黙の後で言葉を返す。
「これも……UPが絡んでるのかな……」
「……半分違う」
「え?」
ハンカチで流雫のパーカーを拭く澪は、思わず声を上げた。
 「UPを信仰する連中の仕業だとは思う。ただ、UPが本当にVR教団だったとして、そこまで帰依したところで何になる?」
と流雫は言う。厳しめに聞こえるのは、自分に問うているからだ。
「……事件を機に社会を敵に回すと判っていても、自分たちが犯罪者となってでも実現したいものが有る……。でも、あまりにもリスクが大き過ぎるわ」
「そう、UPは社会から追放される。グループMはコンプライアンスを理由にテックスタートと断絶し、他の企業も見限る。ただ、アルスの話が正しければ、そもそもテックスタート、アルカバース自体とばっちり……」
「……テックスタートにUPの圧力を掛けたのが誰なのか……」
と澪は言った。流雫は学校で、昨夜アルスが話していたことを澪に話していた。
 グループMでもテックスタートでもない、しかしテックスタート寄りの第三勢力がいる。それが一体誰で、目的は何なのか。ただ、目的が何だろうと、こうしてテロに走る以上は、犯罪集団でしかない事だけは明確に言える。
 流雫の目や喉に刺激は残っていない。咄嗟に反転して目を閉じたのが功を奏した。そして澪は、刺激を全く感じていない。それだけでも御の字、流雫はそう思っている。
 駆け付けた警察官が、石灰の直撃を受けた駅員や男に近寄る。そして高校生2人にも。
「……弥陀ヶ原さん……」
と流雫は呼ぶ。
「帰ろうと思ったが、騒ぎが聞こえてな。何が起きたんだ?」
その問いに、流雫は助かったと思った。

 AEDを受けた男は、病院で死亡が確認された。直接の死因は、大量の石灰を短時間で吸引したことによるものだった。一通りの話の後で、流雫は弥陀ヶ原の言葉をリピートする。
「AEDの周波数をトリガーに……?」
「男のビジネスリュックからは、石灰とエアダスターを使った噴霧装置が見つかった。人体に触れること無く完璧なタイミングで起動させるなら、それが最適だろう」
「でも、どうやってAEDを使わせるんですか……?犯人は、あの場所で倒れるのを知っていたとでも……?」
「使わせるために、心停止を引き起こすトラップが有ったのなら、話は合うハズだ」
と弥陀ヶ原は言う。流雫は問うた。
「そのための電気ショックを与える装置が有った……?」
「そうだ」
と弥陀ヶ原は答えた。

 ……装置の正体が判ったのは、事件発生から2時間後のことだった。男が装着していたウェアラブルサーモデバイスは、スタンガンを偽装したものだった。
 本体のパッドを電気で冷却または加熱し、後ろ首に密着させることで血液の温度変化に作用させ、身体の体温を調節する仕組みだ。特に夏場に売り出され、雑貨屋や家電量販店でよく見掛ける。
 そのパッドを改造してスタンガンの効果を持たせたのが、この装置だった。警察の担当部署が分解した結果、秋葉原の路地裏で売ってあるような如何わしい電気部品を掻き集め、3Dプリンタでケースを作成したと断定できた。AEDの周波数をトリガーにするレシーバーも同様だ。
 それは夜のニュースでも報じられていた。
 詩応は事件の一報に胸騒ぎを感じ、澪にメッセージを送った。その返事で、彼女とその恋人が遭遇したことを知った。無事だったからよかったが、そうでなければ不安に押し潰されていただろう。
 福岡での夜は何事も無く過ぎていく。後は明日、集会が終わって新幹線で名古屋に帰り着くまで、何も起きないことを願うだけだ。

 「……夕方、流雫と遊んでた時だけど」
と言って澪は、食後の酒を愉しもうとしていた父にカメラの画面を見せる。
「何だ?隠し撮りか?」
「流雫を撮ってたんだけど……何か気になって」
と澪は言い、画面をズームして見せる。
「……これ、俺に送れ」
と常願は言った。
 澪が撮った写真は、男女が何か小さな物を受け渡している様子を捉えていた。転送先のスマートフォンでズームすると、それが白いウェアラブルサーモデバイスと白いタグだと判る。
 ……警察が公表したスタンガン装置とAEDの周波数センサー、それらの特徴と一致した。写真に写る男は、駅で死亡した男とは特徴が違うものの、恐らく防犯カメラをリレーすれば特定は割と早くできそうだ。
「本来隠し撮りはアウトだが、今回ばかりはよくやった」
と常願は言いながら、未だ臨海署のデスクに張り付いている部下に写真を送った。

 澪が父親と話している頃、バスタブに身体を沈めていた流雫は、弥陀ヶ原の言葉を思い出していた。
「君がAEDを持ち出したのは正しかった。AEDの解析も正しかった。間違っているのは、急患の蘇生を援助するシステムを悪用したテロだけだ」
「最も怖ろしいのは、これによって人々が、善意が裏目に出て面倒なことになるのを恐れることだ。誰もが無関心になり、誰も助けなくなる。未だヤジ馬の方がマシ、と云うワケだ」
 ヤジ馬は興味本位で見たがるだけで、救助を手伝う気は無い。しかし、それでも最低限の関心を示している。その時点で、無関心よりはマシなのだ。これが皮肉じゃなければ何なのか。
 敵か味方か、その二択で言えば、ヤジ馬連中は全員敵。味方に成り得る者はいない。流雫にとっては澪や彼女のツテで知り合った人、そしてフランスにいる数人だけが味方だ。
 ……その誰もが流雫を慕っている。詩応や悠陽も、何だかんだで流雫の強さや優しさを認めているのだ。ただ、如何せん本人がそれに気付いていない。尤も、それはよく有ることだが。
 「……頼られる以上に頼れ、か……」
無意識にリフレインする母の言葉に、流雫はそう呟いた。

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