Ⅵ.Sweet Trap-1

 店の前でチェシャ猫と別れ、グリフォンは最初にエイダを見つけた場所へ戻った。警察に行く前に、どちらの方向から来たかなど確認しておこうと思ったのだ。

 そこはいくつかの街路が交錯し、カフェやレストラン、ブティック、書店などが集まった広場だった。ウィンターローズがある辺りよりずっと賑やかで、通りをまっすぐ行けば〈人形館《ドールハウス》〉へもそれほど遠くはない。

「どっちから来たか、覚えていますか?」

 尋ねると、エイダはきょろきょろと周囲を見回して首を振った。

「わかんない……」

「何か目についたものはありませんでしたか?」

「ん~……」

 エイダは真剣な顔であちこちを眺めたが、やはり首を振った。

「歩いてきた?」

「……くるま……かな?」

 首を傾げながら、エイダは呟いた。嘘をついているとは思えないが、幼児にしても記憶が曖昧すぎる。それとも、そういうものなのだろうか。

(発達心理学を学んでおいたほうがいいのかな)

 ふとグリフォンは思いついた。アリスとの関係にも役立つかもしれない。さっきはきっとアリスを深く傷つけてしまったことだろう。レイヴンの忠実な従者にすぎない〈顔なし《フェイスレス》〉の自分に過大な期待を寄せられても困るが、できるだけのことはしてやりたいと思う。他人に無関心なレイヴンがわざわざ養女に迎えたくらいなのだ。そっけない態度を取っていたって本心では気にかけているはず。

「あっ……」

 ふいに小さな叫び声が上がり、エイダの手が離れる。ちょうど混み合う信号前で、小さな少女の姿はあっというまに人込みに紛れてしまった。

「エイダっ……!?」

 慌てて振り向いたが、押し寄せる通行人に阻まれてしまう。あちこち見回しながら懸命に探し回ったが、エイダは完全に姿を消していた。グリフォンは呆然と立ち尽くした。

 どうやったらアリスの機嫌を取れるかと考えて、注意が逸れてしまった。まさか逃げだすなんて思わず、監視対象として固定しておかなかった自分の判断ミスだ。

 もともとグリフォンは近接警護を目的に造られており、遠ざかっていくものを追尾するために使えるのは視覚と聴覚くらいだ。人間よりははるかに優れていたとしても、この混雑ぶりではたいして役にたたない。

 広場を何周もして、通行人に尋ねてもみたが手がかりは掴めなかった。

(──仕方ない。いったん戻ろう)

 レイヴンに怒られるだろうな……、としょんぼりしながらグリフォンは引き返した。

 家に戻るとまっすぐ書斎へ向かったが、ノックするのを少しためらう。もしもレイヴンが休んでいたら、邪魔したくはなかった。そっと扉に耳を押し当てると、リズミカルにキーボードを叩く音が聞こえてきた。起きているようだ。ノックするとすぐに応答があった。

「どうした?」

 パソコン画面から顔を上げたレイヴンは、眉をひそめてグリフォンを眺めた。すでに彼は普段どおりの平静な表情に戻っている。

「……すみません。エイダさんを見失ってしまいました」

 しばし間を置き、レイヴンは穏やかに頷いた。

「そうか。ご苦労さん。もういいよ」

 叱責を覚悟していたグリフォンは呆気にとられ、まじまじとレイヴンを見つめた。

「あの……?」

「うん、いいんだ、もう。気にするな」

「でも……っ」

 レイヴンは黒手袋の指を組み合わせ、静かに微笑んだ。

「いなくなったのなら、それでいい。忘れろ」

 あっさりと言って彼はふたたびディスプレイに視線を戻した。先刻、動揺に青ざめてグリフォンを怒鳴りつけたのが信じられないくらい、平静そのものだ。

 このまま引き下がる気になれず、グリフォンはいつになく食い下がった。

「──あの子は誰なんですか。いったい、あなたにとって何なんです……!?」

 レイヴンは軽く溜息をつき、椅子の背にもたれてグリフォンを眺めた。

「誰でもない。何の意味もないよ」

「どういう……意味ですか。さっきあんなに動揺してたのに……」

「そうだな……。おまえを怒鳴りつけて目が覚めた」

 くすりと彼は笑った。冷ややかに、自嘲するかのように。

「気にすることなどなかったんだ。──そう、あれは今の私にとって、まったく意味のない存在だったんだから」

「わかりません!」

「うん、だからね。あの子は*そのため*に遣わされたということさ。そうだな、『天使』……と言ってもいいかもしれない。なにしろ『神』が遣わしたものだからね」

 ふたたびレイヴンは笑った。完全に他人事と言いたげな、突き放した冷笑だった。グリフォンは混乱して口ごもった。

「わかりません、全然……。あなたはいつも、そうやって僕の知らないところで何もかも解決してしまう。僕は……、僕の行動原理はあなたが傷つかないように守ることです」

「守ってくれてるじゃないか」

「ただ身体的に傷つかないようにすればいいんですか!? 本当にそれだけで……いいと……っ」

 何故だろう。傷つくような『心』など持っていないはず。組み込まれた感情アルゴリズムに不具合でもあるのか。

「……そうだな。おまえを造ったとき、望んだのは確かにそれだけだった。だけどね、グリフォン。おまえが側にいると、私はとても気が安らぐんだ。それでは足りない?」

 冷たかった彼の微笑が優しくなる。

 ああ、そうだ。彼はこういう顔を他の誰にも見せることはない。ただ、傍らにグリフォンがいるときだけ……、ふっ、とやわらかく彼は微笑むのだ。

「僕は……あなたの役に立ちたいんです……」

「役に立ってるさ。充分すぎるほど。──グリフォン。おまえさえいれば私は大丈夫なんだ。おまえは私にとって本当に必要で……、すごく頼りにしてる。そんな存在は他にはない。……信じられないかい?」

 グリフォンはふるっと首を振った。

 レイヴンを信じることができないなら、いったい誰を、何を信じればいい? 廃棄物の山から自分を見つけ出し、新しい顔と身体を与えてくれた。名前もつけてくれた。大切に、それこそ人間のように大切に扱ってくれた。

 何もかも、すべてを話してくれたわけじゃない。今でも知らないことのほうがずっと多いだろう。それでも彼はその場しのぎの嘘でごまかすことは絶対にしなかったし、これからもそんなことはしないと信じられる。

「あなたを、信じます……」

 そう呟くと、レイヴンはにこりとやわらかく微笑した。

「それじゃ、コーヒーを淹れてくれるかな。今日はまだ一杯も飲んでないのでね」

「すぐにお持ちします」

 頷いて書斎を出てから、ふと気づく。

(──やっぱりはぐらかされた?)

 くすりと笑みがこぼれた。

 ずっと側にいれば、そのうち話してくれるかもしれない。自分なら待てる。いつまでだって待っていられる。

『おまえさえいれば、私は大丈夫なんだ』

 だったらきっと、自分は彼を守れているはずだ。

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