Ⅲ.虚夢《そらゆめ》-1
そわそわしながらカフェの入り口を窺っていたチェシャ猫は、戻ってきたグリフォンを見てホッと安堵の表情になった。
「遅かったじゃねーか! どういうわけか、こういうときに限って手作業の注文ばかり入ってよぉ。もうどうしようかと」
「すみません、チェシャ猫さん」
買ってきたものを片づけるのは後回しにしてグリフォンはオーダーを確かめた。それぞれの注文に応じた豆を用意し、挽いている間にサーバーをセットする。出来上がったコーヒーをグリフォンは自ら客席に運んだ。注文は全部違っていたが、もちろん間違えたりはしない。
チェシャ猫は紙袋からミルクのビンを出して冷蔵庫に入れようとした。身体の向きを変えた途端、何かに蹴躓いてつんのめりそうになる。
「おわ!?」
危うくビンを取り落とすところだった。いったい何だと視線を下げたチェシャ猫は、目を丸くして見上げている小さな女の子にようやく気づいた。
「んぁ!? 何だおまえ、どっから入ってきた!?」
四、五歳くらいだろうか、人形みたいに整った顔だちだ。少女はチェシャ猫を見上げ、にっこりと笑った。無邪気で愛らしい笑顔に思わずへらっと笑い返してしまう。ハタと気を取り直したチェシャ猫は、戻ってきたグリフォンを慌てて訴えた。
「お、おいグリフォン。どっかの子供が紛れ込んでるぞ!?」
「あ、僕が連れてきたんです。迷子みたいで」
「迷子なら警察連れてけよ!」
「そうなんですけど……、急いでいたもので。放っておくわけにもいきませんし」
グリフォンは女の子を抱き上げ、スツールに座らせてやった。オレンジジュースをグラスに注いで出してやると、少女は嬉々としてストローを銜えた。
チェシャ猫は隣のスツールに座り、感心したように呟いた。
「それにしてもキレーな顔してるなぁ……。美少女コンテストに出たらぶっちぎりで優勝しそうだ」
「そう……ですね」
グリフォンは曖昧に頷いた。確かに等身大の人形を連想させる整った容貌だ。目鼻だちはいわゆる黄金律の均衡で絶妙に配置されている。
だが、そんなことありえるのだろうか? 生身の人間がそんな『完璧な』顔をしているなんて。レイヴンの一見完璧な美貌さえ、わずかながら黄金律からずれているというのに。
──いや、彼は故意に*ずらして*いるのだ。それこそ絶妙の按配で。彼の容貌には不思議な『ゆらぎ』がある。それが人の心を波立たせ、否応なく視線を引きつけるのだ。
(この子の顔……、仮面《マスク》なんだろうか)
グリフォンには見分けがつかない。見ただけで材質を分析できる機能は彼にはない。触れても同様だ。仮面《マスク》はよほどの粗悪品でないかぎり人体の放熱パターンを阻害しない素材で作られているから、きちんと皮膚に載っていればそれが素顔なのか仮面《マスク》なのか見た目では判別できないのだ。
(レイヴンならわかるのかもしれないけど……)
彼は仮面《マスク》と素顔の違いを正確に見抜く。それが専門家ゆえの鋭い観察眼なのか、何か特殊な能力があるのかは、正直わからない。どうやって見分けているのか訊いたら、彼は『何となくわかるんだ』と答えた。『何となく』はアンドロイドのグリフォンには理解できない概念で、まねすることは不可能だ。
確信が持てないこと──確定できないことは思考回路に負荷を強いる。人間が不安を感じるようなものだ。本来、仮面《マスク》なのか素顔なのかなど、グリフォンにとってはどうでもいいことである。どちらでも大差ない。彼は顔だちよりも身長や体型といった身体データや放熱パターン、身振りや歩き方などを総合して個人を判別している。仮面《マスク》が日常に溶け込んでいる〈迷宮都市《ラビリントス》〉では、『顔』は個人識別の一要素でしかない。
なのに何故、これほどまでにこの少女の容貌が気になるのか。
理由ははっきりしている。
彼女があまりにもレイヴンに似すぎているからだ。
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