Ⅰ.禍夢《まがゆめ》
『──その黒衣は喪服なんだね』
同情を装いながら露骨な嘲笑を含んだその声が、毒の滴りのごとく心を腐食させてゆく。
『可哀相に……』
ミラーグラスの向こうから注がれる視線。すべてお見通しだよ、と無言のうちに威圧される。
『贈り物を届けてやろう』
声にならない笑い声が、じわじわと首を絞めつける。
『楽しみに待っておいで、ウィルフォード』
──あれは、何だ?
赤黒い塊。
ギラギラと眩い照明の下でグロテスクに濡れ光ってる。
見えるのは、ただそれだけだ。
血まみれの、肉塊。
*あれ*が彼女なのか?
メドラ。
きみはいったいどこへ行った?
さっきまでは確かにそこにいたはずのに。
厚いガラスに隔てられ。絶望の悲鳴と噴き出す涙のなか、それでもきみはまだ*存在*していた。
でも、今見えるのは。
ただの、
カタマリ、
だ──。
メ ド ラ
きみが見えない。美しかったその顔も、愛しかったその身体も。
もう何も、ない。
『待っておいで、ウィルフォード』
あざ笑う声。ただそれだけが渦巻いてる。すべてが意味のない物体に変わってしまった、灰色の霧の世界に。
永遠に耳をついて離れないだろう。彼女の絶叫と、あの男の哄笑。
『待っておいで』
……………… 『ウィルフォード』
……………… 『待っておいで』
くす。
くすくす。
──── や め ろ ──── !!
「──レイヴン!」
強い口調で名を呼ばれ、悪夢の淵から引き上げられた。
見開いた瞳に映る光景が次第に意味を成しはじめる。苦悶にざらつく息づかいが『彼女』ではなく自分のものだと気付いて、レイヴンは震える口許をぎゅっと押さえつけた。
「大丈夫ですか……?」
顔を覗き込みながらグリフォンが小声で尋ねる。レイヴンはようやく口許から手を離すと、絞り出すように吐息をついた。
「……思い出せない……」
グリフォンが訝しげに首を傾げる。
「何が思い出せないんですか?」
「……顔」
「顔? 誰の顔です?」
レイヴンは答えることなく左手で目元を覆った。ケロイド状の皮膚が骨にぴったりと密着した細い手指。それは死蝋のごとき奇妙な艶をおび、美しいガラスの筥に収められた聖遺物を思わせる。盛り上がった皮膚組織になかば埋もれるように、薬指で銀色のリングが仄昏く輝いていた。
レイヴンは嘆息すると身を起こした。
「もう少し寝ていたほうがいいんじゃないですか」
気づかわしげな声に、レイヴンはようやく微笑んだ。
「いや……、もう大丈夫だ。──それより店のほうはいいのか」
「ちょうどお客さんがいなかったんです。チェシャ猫さんも早めに来てくれたし、起きてくるのが遅いので、ちょっと様子を見に……。すみません、うなされていたので揺り起こしてしまいました」
「すまん、寝過ごした」
サイドテーブルに置かれた時計の表示はすでに十時半を過ぎていた。グリフォンはレイヴンの額に掌を当てて眉根を寄せた。
「少し熱がありますよ。休んでいてください」
「たいしたことない。シャワー浴びてくる」
レイヴンはそっけなくグリフォンを押し退けた。バスルームから水音が聞こえてくる。グリフォンはカーテンを開け、寝汗を吸ったリネン類をベッドから外して洗濯機に放り込んだ。
新しいシーツを持ってきてベッドメーキングしていると、浴室からバスローブを引っかけたレイヴンが出てきた。濡れた黒髪から垂れる雫もそのままに、煙草──実際には体温調節用の薬剤──を銜えると、窓辺に腰掛けてぼんやりと外を眺める。
グリフォンが灰皿を窓枠にそっと載せると、ふと思い出したようにレイヴンは呟いた。
「今日は何日だっけ……」
「十七日ですよ」
彼は黙って煙草を吸った。本物の煙草とは異なる香りの煙を吐き、グリフォンを見上げて静かに微笑む。
「少ししたら出かけるから。店は任せる」
「わかりました。朝食はキッチンに用意してありますよ。食べてくださいね」
「ああ」
頷きはしたが心ここにあらずといった様子だ。戸口で振り向いてみると、レイヴンはぼんやりと窓外に目を向けていた。実際に見入っているのは景色ではなく、夢の残像なのかもしれない。
ひっそりとした横顔がいつも以上に青ざめて見えることを気にかけながら、グリフォンは静かにドアを閉めた。
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