宇多田ヒカル「真夏の通り雨」- ずっと癒えない癒えない渇き -
まえがき
カレンダーだけは9月になったけどまだまだ酷暑の厳しい今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回は「ずっと下書きに眠ってた記事を夏のうちに書き切っちゃおう」編として、宇多田ヒカル「真夏の通り雨」について書きたいと思います。
曲紹介
作詞・作曲・編曲:宇多田ヒカル
いつもは長々と曲紹介を書いてるんですが、この曲はとても切なく静かに心に入ってくるタイプの曲なので、詳細はWikipediaに任せてササっと本題に入りたいと思います。
歌詞
Wikipediaでも引用されている各種インタビューによれば、この曲の骨子には以下2つのイメージがあったとのこと。
・亡くなった母(藤圭子さん)への想い
・「すごく辛い昔の恋愛を思い出している中年の女性。悲恋を思い返してる、救えなかった人を置いてきてしまって罪悪感を感じている女性」というイメージもあった
筆者の勝手な推測ですが、「もう会えなくなってしまった大切な人への想い」→「忘れられない過去の恋愛」に発想を飛ばして、恋愛に置き換えることで誰でも共感しやすい形にしたのではないかと思います。
なお、この曲に「1番」「サビ」とかの区切りは何か合わない気がする・・・という筆者の感覚から、今回はPart Ⅰ ~ Part Ⅳに勝手に区切りましたのでご承知おき下さい。
Part Ⅰ
夢の途中で目を覚ましてしまった「私」。
続きを見たくてもう一度眠ろうとするけれど、同じ夢の中にはもう戻れない。
つい先程まであんなに鮮明に感じられていた夢の中の世界は、もう幻になってしまった。
「私」がそこまで強く夢の中に想いを馳せる理由とは、いったい何なのでしょうか。
この後のフレーズですぐ明らかになります。
「揺れる若葉に手を伸ばし
あなたに思い馳せる時
いつになったら悲しくなくなる
教えてほしい」
もう会えなくなってしまった「あなた」と夢の中で会えたから、もっと続きを観ていたかった。
ただそれだけの、それだけだからこその強い想いでした。
「私」と「あなた」は、どういう関係性だったのでしょうか?
それを示唆するのが下記の歌詞。
「汗ばんだ私をそっと抱き寄せて
たくさんの初めてを深く刻んだ」
肉体関係があったみたいです。
それも「たくさんの初めて」をくれた人。
単純に初めてした相手ということかもしれないし、「あなた」から初めて教わった沢山のそういう体験があった、ということかもしれない。
凄いなと思うのが、明確に性的なニュアンスを含んだフレーズなのに、全然いやらしさを感じないんです。
むしろ、ひたすらにプラトニックで純粋な想う気持ちを感じてしまう。
筆者の個人的な感覚ですが、女性作詞家がそういう行為を描写した時はこんな風にむしろプラトニックな心情を感じることが多いです。
個人差はあると思いますが、男性の性欲はある意味愛情とは切り離された所にあるのに対して、女性にとってそういう行為はどこまでも愛情の延長線上にあるんだなと感じてしまいます。
筆者は女性作詞家の歌詞を好きになりがちですが、こういう所が理由なのかもしれません。
Part Ⅱ
今の「私」の隣には恋人・パートナーがいて、それなりに幸せで充分満足していいはず。
自分にそう言い聞かせても、心のどこかで今も「あなた」を探している。
勝手な深読みになるんですが、この2人は相当ややこしい関係だったのではないでしょうか?
なぜかというと、次の歌詞があるからです。
「勝てぬ戦に息切らし
あなたに身を焦がした日々」
Part Ⅰで「汗ばんだ私をそっと抱き寄せて~」があったので、この2人には確実に身体の関係はあったはず。
なのに、「私」の「あなた」への想いは身を焦がすような勝てぬ戦だった。
シチュエーションは色々考えられますが、「抱いてはもらえたけど最後まで本命にはなれなかった」そんな関係だったのではないでしょうか。
思い出すのも辛い恋愛なはずですが、「私」は忘れようとはしていません。
なぜなら「忘れちゃったら私じゃなくなる」から。
その辛い恋愛も、今の「私」を形作った大切な経験だから。
今も「あなた」のことが好きなのは、否定しようが無い事実だから。
それを否定したら、今の自分自身も否定することになってしまうから。
忘れたいんじゃない、きちんと気持ちに整理を付けたいだけ。
いつかあっけらかんと「昔こんな事もあったなぁ」って笑って話せるようになりたいだけ。
「教えて 正しいサヨナラの仕方を」からそんな気持ちを感じます。
なんというか、あらゆるものとの別れの真理だなと感じます。
忘れたいんじゃない、正しくサヨナラしたいだけ。
その通りで、でもサヨナラの仕方に正解はなくて。
ただただ、時間と共に自分の気持ちに整理が付くのを待つしかない。
それが人類の永遠の命題かもしれません。
これまた深読みしすぎかもしれませんが、
「誰かに手を伸ばし
あなたに思い馳せる時」
ってどんな気持ちでしょうか?
目の前にいる今の恋人・パートナーに手を伸ばして、手を繋いだり抱きしめてもらったりするけど、心のどこかでは遠くの「あなた」に思いを馳せている。
悪く言うと、「あなた」を失った寂しさを他の人で埋め合わせようとしてるけど、完全には埋まらないことも分かっている。
そんな卑怯な自分に罪悪感と後ろめたさを感じて生きている。
そういう風にも聴こえます。
Part Ⅲ
周囲の風景は変わり、月日は巡っても、
今も変わらない私の気持ちをあなたに伝えたい。
「自由になる自由がある」にハッとさせられました。
今も「私」を縛る呪縛のようなあなたへの気持ちから、解き放たれる自由だってきっとあるはず。
そう思うのに、結局は「愛してます なおも深く」という偽らざる自分の本心を再認識してしまう。
そして曲名の「降り止まぬ 真夏の通り雨」
夕立や、今風に言うとゲリラ豪雨でしょうか。
夏の午後に短時間だけ激しく降る雨。
本来ならすぐに降り止むはずなのに、私にとってはまだ降り止んでいない。
「あなた」と一緒に過ごした時間は、自分の人生全体で計算したらほんのわずかな短い期間だったはずなのに。
「私」は今も「あなた」に囚われ続けている。
それはまるで「降り止まぬ 真夏の通り雨」のようだ。
言葉にしたらあっけないくらい単純な比喩なんですが、どうしてか心に深く深く染み込んできます。
おそらく、筆者の言語化できなかった気持ちを明確に言葉で示してもらえたらかなのでしょう。
忘れられない人との別れ、消化しきれない気持ち。
それはまさに「降り止まぬ 真夏の通り雨」としか表現できないもの。
こんなに美しい曲名はそうそう無いでしょう。
この直後から入るバスドラムのキック音が、心臓の鼓動みたいで感情を揺さぶります。
バスドラムが控えめに入っただけなのに、感情の昂ぶりがごく自然に表現されて静かなまま盛り上がっていく。
編曲としてあまりに秀逸だと思います。
Part Ⅳ
「ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない渇き」
普通は雨が降れば渇きは癒えるはずなのに、「私」にとっては真逆。
「あなた」を想えば想うほど、心の渇きは増していく。
この2行が淡々とリフレインされて終わるのが、かえって痛みや喪失感を浮き彫りにします。
どんなに凝ったアレンジも、このリフレインには敵わないでしょう。
宇多田ヒカルは編曲家としても唯一無二と言わざるを得ません。
あとがき
本当に素晴らしいものは、言葉で語るだけ野暮になる。
そんな感覚があってずっと下書きに眠ったままだったこの記事ですが、夏が終わる前に書き上げようという決心で何とか書き終われました。
曲全体として、ピアノ・ベース・バスドラム・ストリングス・歌くらいしか音の構成要素が無い超シンプルな作りなのに、それゆえの圧倒的な完成度と説得力を持ってしまうというのが宇多田ヒカルという人の凄さでしょう。
シンプルなものは伝わりやすいメリットがある一方、要素が少ない分ごまかしが効かず本人の力量が直接出てしまう。
シンプルなものをシンプルなまま世に送り出して多くの人に伝わる、というのが作家の胆力だとすれば、宇多田ヒカルという存在はそれを体現していると言っても良いと筆者は勝手に断言します。
この曲の美しさを余計な言葉で邪魔したくなかったので、今回はまえがきとか曲紹介はなるべく簡素にしました。
毎回これでいいんじゃないか?という気もしてきました。
こんな感じで宇多田ヒカルさんの歌詞について何曲か記事を書いてますので、もしご興味あれば読んで頂けたら嬉しいです。
では、以上となります。