SNSと、私の輪郭
普段持ち歩くiPhoneから、InstagramとTwitterを消した。
ある時期、奏者としての知名度を上げるために投稿を欠かさなかった自分を省みると、大きな転換点だった。
SNSは、たしかに便利。
欲しい情報はすぐに手に入るし、人のことを知りたいと思えばすぐに調べがつく。
それが、その人の見せたい情報であろうとなかろうと。
消してみて気がついた事がある。
電車に乗った時、手持ち無沙汰になった瞬間に無意識でSNSを開くのが癖になっていた。
SNS上で自分を証明するのが当たり前になってたし、無意識に他人の情報を身体に入れていた。
それは、遅効性の毒のように私の心を蝕んだ。
SNSを開いていた時間は、本を読む時間に置き換わった。
"無意識に摂取していた情報"と、"自分で選んで取り入れた情報"の差は大きい。
情報を選ぶようになってから、自分が大切にしたい考えやモノの色がより鮮やかに見えるようになって、何をSNS上で発するべきなのか、その基準もよりはっきりとした。
自分の好きな本のこと、
インクの透ける万年筆、
季節の移り変わりのひとときの写真、
笑う犬、
少し自慢したい出来事、
感動したこと、
私を豊かにしてくれる色んなこと。
一日の中で起きたことや、出会ったものの中からとびきり素敵なものを、家に帰ってからじっくり選んでSNSにあげる。
私が発信したことをきっかけに、その人がまたひとつ豊かになることがあったなら。
それは手に取ることはできないけど、とてもあたたかな出来事だなと思う。
SNSは、たしかに便利なのだ。
手軽に自分を発信できて、他人の発した情報を受け取れる。
それらは全て一意見であり、その人の全てではないし、その物事の全ての評価や意見じゃない。
そうわかっていても、私は情報に引っ張られて自分の輪郭が薄れる感じがする。
情報の遮断は、ぼやけてしまいそうになる自分の輪郭を保つことに繋がる。
情報の選択は、自分の輪郭をより濃くする手助けをしてくれる。
人は情報の塊。
SNSはたしかにその人の存在を伝えてはくれるけど、その人を知るために必要な情報は言葉だけじゃない。
その人の目の動き、
声のゆらぎ、
つかう言葉、
仕草のテンポ、
それらが緩やかな波長をかたちどって伝わってくるから、人のことを好きになれる。
そして、言葉が伝える情報が強烈だからこそ、言葉の選び方を気をつけたいなと思う。