
少女は拒絶する、乙女は受容する。
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少女は拒絶する、乙女は受容する。
世界を、時間を、他者を、そしておそらく自分自身を。
自分を縛る何者かに首を横に振り、ときにはおのれの美しささえも拒み背け、空を飛ぶことだけを祈り、その背中に羽がある自身を疑い、反世界に出奔しようとするのが少女。
自分が愛す何者かに首を縦に振り、ときにはおのれの穢なささえも迎え入れ、夢を見ることだけを願い、その心臓に翅がある自身を信じ、世界を空想しようとするのが乙女。
少女は高潔で勇敢。乙女は慈悲と夢。
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今日、5月4日は『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』のなかで作者のルイス・キャロルことドジソンが、“アリス”のモデルとしたとされる少女、アリス・リデルの誕生日ということで、アリス・リデルといえば彼女自身が歩んだ生身の人生をこえ「永遠の少女」としておおくのひとのなかで生き、アリス・リデルにとっては幸だったかそうでなかったかはともかく、“アリス”というその名がひとつの呪文のようにある種の甘美さと郷愁を呼び起こす存在として現在においてもその魔法はつづいているけれども、そんな“少女”が生まれた日であることに想いを馳せたとき、大昔に綴った「少女と乙女」についての自分の言葉が浮かんできて、それが冒頭の「少女は拒絶する、乙女は受容する。」からはじまる一連の文章で、遠い過去に記したこの言葉のことは今年のはじめにも想い出すことがあり、せっかくなので記憶の屋根裏部屋から自分自身のための“図書室”とさだめているこの場所に移しておこうと思い立ったのでした。
少女と乙女は鏡あわせでありながら、相対物を描くように違う生き物、異なる種族。
空と海ほどに。
そしてアリス・リデルが“少女”ならば、おなじくドジソンの楽園とでもいうべき、かれが自分自身の“王国”をレンズをとおして出現させるために撮影した子供たちの写真のなかにひとりの“乙女”がいることを、時のなかに静止して刻まれた“彼女”をはじめて目にした瞬間(それがいつのことだったか忘れてしまったけれど。遠い遠いむかし)に感じとったことを覚えている。その“乙女”の名はアレクサンドラ・キッチン。ドジソンが“クシー”と呼んだ女の子。
アリス・リデル(Alice Liddell)


アレクサンドラ・キッチン(Alexandra Kitchin)


「少女は拒絶する、乙女は受容する」とかつてわたし自身が綴った言葉のなかに生きる少女と乙女を想うとき、その象徴として少女にアリス・リデルを、乙女にアレクサンドラ・キッチンを当て嵌めることができるのではないかしらと、今日がアリス・リデルの誕生日であると知ったとき、そこからつづく連想で考えたりしていたのでした。アリスが“少女”なら、アレクサンドラことクシーは、わたしが思う“乙女”そのもの。
少女は天使と、乙女は妖精とおなじ眷属。
少女はペガサスに、乙女はユニコーンに愛されている。
少女は空で、乙女は海。
そんなふうにわたしはずっと思っているのだけど、こんな話をはじめるとまた長くなりそうで、けれども長く書こうとすると最初のインスピレーションからは遠ざかる。だから感覚で浮かぶものたちに理屈をつけ言葉を弄りまわすのは自分のなかにある言語に手垢をつけること、無粋なことなのかもしれない。
高潔で勇敢でありながら、慈悲と夢をもつ者であれることを祈り願いながら、今夜はここまで。
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