レーエンデ国物語を読んで

トリスタンとエレナと登場人物みんなが美しかった。輝いていた。
愛の力はすごいのだと思った。なぜ美しいのかと言われたら、一生懸命に生きていたから。私にはそれはできない。愛があるから一生懸命生き、死んでいくことができた。どうしてあれほど誰かのために怒れるのだろう、誰かを思い続けられるのだろう、命をかけて、自分の命より大切にできるのだろう。それはその誰かを愛しているからだ。ヘクトルもユリアを愛し、リリアもユリアを愛し、ヘレナもユリアを愛し、ユリアもみんなを愛していた。理由や意味、損得をいちいち考えて動かない。根底にあるのはやはり愛だ。愛しているから心が動き、体が動き、それから周りに目を向け合理的な判断を下す。魅力的なキャラクターは皆、頭がいい。頭の良さで愛を正しい方向に使うからだ。物語の都合の良さはこれかもしれない。実際あれほど地頭のいい人たちが集まって共闘し、支えあうというシチュエーションは生まれるだろうか。現実で、もしかしたらあるかもしれないが、短い人生の中ではまだ見たことはない。自分は当事者ではないから外から見るしか判断はできないが。それとも、現実にありえないから物語にしているのだろうか。トリスタンは作中で命を使い果たすまで描かれた。自分が死ぬ時のことを考えてみる。あんな風に笑って死ねるだろうか。人間は死に向かって生きているというが、笑って死ねるようにと目標を持って生きればいいのだろうか。いや違う。今を一生懸命に生きることだ。みんなはそうしていた。適当にやり過ごした時間など描かれていない。誰かと喜び、誰かに悲しみ、誰かを怒り、誰かと笑い、本当の意味での充実した日々を送っていた。死にざまが美しかったのではなく、死ぬまでの過程が美しかったのだった。なんでだろう。感情が何も把握できない涙が、流れる。感情なんて、意味なんて後付けで、後からいくらでも変えられる。感情の理由さえ決めてしまえば、揺らぐことはなく、なんであの時こう思ったんだろうと過去を振り返っても全て感情の理由のせいにできる。でも、今はできない。理由が一つもわからない。だったら付けない方がいいかもしれない。これからわかるかもしれない。一つ、感情を形容できるとすればそれは、美しい、だ。何が、誰が、なぜ、どうして、なにもわからないが最もシンプルで寛容に形容してくれるのはやっぱり、美しい、なんだ。ごちゃごちゃと机上の論理で具体化していったら何か薄っぺらくなる気がする。私にはまだ具体と抽象を行き来できるほどの経験値がないからだろう。でも何か、抽象的な美しいものに満たされている。この気持ちを大切にしたい。一生懸命生きたい。

一発書き。添削なし。ただのメモです。

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