ジブンブンセキ #1

「アウトプットを前提としたインプットのほうが理解力があがる」

「インプットとアウトプットは両輪である」 とあるVoicyより


今日からそーしゃるめでぃあに私の考えたこと、アウトプットしていくよ~


アウトプット、インプットという抽象的な言葉はよく使う。去年はアウトプットの年、一昨年もそうだ。中学1,2年はインプットメインの年だった。こんな風に頭の中ではよく言う。

 中学1,2年の時は環境問題にのめり込み、がむしゃらに情報をかき集めて、どうにか地球を守りたいと思いながらも、地球の現状や人間の愚かさ、憎さを知るほど、精神をすり減らし、壊れた。(思い出すだけで辛いぜー)情報をインプット、それらを同じ志を持つ人たちに話す、つまりアウトプットをし、意見をもらったり、またさらなる情報を得たり(インプット)と繰り返していた。

 人と交流し、一見アウトプットもしているように見えるが、私はこれらの年をインプットの年と捉えている。単に自分の”イン”に入って、悩んで、葛藤して、でも人と腹を割って話せなくて心の中だけで一人で考えていただけだったからだろうか。(当時のアウトプットは私には十分じゃなかった。詳しくは後日?)それとも新しい知識を得たり、情報を集めたりすることで自分の意見を作ろうとしなかった今年に比べたらインプットしていた、といえるのだろうか。答えはたぶん後者。中学2年までと、中学3年から高校1年まで何が違ったかというと何から自分の意見を作ったかということだ。何からか、それは人と関わるという体験からだ。他人と酸いも甘いも経験することで感じるもの、得るもの(恋愛ではありません)は文字のそれとは桁違いだと思う。外(”アウト”)に視野を向けて、関わる人の人となりによって多くのことを学んだり(インプット)、それをただ言うだけでなく、相手が本当にどう感じているのか、私が言ったことに対してどう感じたかを聞くことで得るものはとても健康的な成長につながるのだと、去年度までを振り返って思った。


初めから気色悪い文章書きやがって!自分でも何を言っているのか意味が分からない。本当に。意味が分からない。これからに期待?ここまで読めたあなたは勇者です

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