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【SS】貴方の声
「……さな……」
サナ、と私を聞き覚えのある声で呼びかけるのは数週間前に行方不明になった彼氏のカケルだった。
正直なことを言うとカケルは最悪の彼氏としか言えなかった。
「なんで飯の準備が出来てねぇんだよ!」
バチンとビンタの勢いに弾かれ、背中が壁に打ちつけられた。
「おいてめぇ、こっち来い」
カケルの言い放ったそれは死刑宣告にも等しかった。いつも、いつもこっち来いと言ったあとは満足するまで殴るのだ。
「痛い……離して……。ごめんなさい……ごめんなさい。」
うわごとの様に謝罪を繰り返し時間が過ぎるのを待つ。いつからこうなったのだろう? 昔は笑いあって楽しくやっていたのに。何が楽しかったんだっけ? もう思い出せないなぁ、と考えていたら涙がもれ出ていた。しまった、と思うにはもう遅く
「てめぇっ、被害者ヅラかよ! 被害受けてるのはこっちだって言ってんだろうが!」
その日の夜は一晩中殴られ、暴言を浴び続けた。
カケルはもう居ない思うと心の底から安心出来る。今までのように怯えていた日々はきっと夢幻だったのだろうと思っていた矢先に。
「……さな……」
カケルのようなものが現れた。見えないからきっと幽霊か何かだ。存在しないと分かっていても煩わしいことこの上ない。死後も私のことを苦しめるのか。
「あんたにいい思い出なんて一つもないの。分かったらさっさと消えてくれる?」
「ゆ……さな……」
掠れた声が耳にグルグルとまとわりつく。今までと違う言葉に何を言ったのかと耳をすませば次の瞬間、つんざくような声が部屋に響いた。
「ゆるさない!」
と叫んでいた。耳がきーんとする。死してなお、迷惑な男だ。
「今更、被害者ヅラないでよ。今まで散々迷惑被ってきたのは私なのよ!」
私は手元にあるティッシュ箱をカケルの声がする方へ投げつける。それは宙を飛び、軽い音を立てて床へ落ちた。
うるさいな。たかが殺されたくらいで、ぎゃあぎゃあと喚かないでよ、今更文句?散々、私を殴ってきたアンタが、死んだくらいで喚くわけ?情けない、どうしようもない位みっともない男ね。
「あんたなんて死んだところで誰も悲しまない! むしろ喜ぶ人の方が多いんじゃない?」
そう言って声がする方を向きながらカケルをどうにかすべく、キッチンへにじり寄る。
「ゆるさない!」
あと少しで塩が取れる。そう思った矢先に視界がぐるりと回り、ゴツンとぶつかる音がする。
「痛いっ……。」
痛い、痛い痛い! 頭が痛い。一体、どうして。キッチンの角には赤いものが着いていて、頭を抑えた手には血がべっとりと着いていた。血……、血がこんなに、死ぬかもしれない。嫌だ、せっかく楽になれたのに! きゅうきゅうしゃ、救急車を呼ばなきなきゃ、とフラフラとぼやける視界の中懸命にスマホを探す。ない、ない! どこにあるの!? 動き回ったせいで頭からの出血が酷くなり、意識がだんだん遠のいていく。自分の体を支えきれなくなった私はその場に倒れ込んだ。上を見上げればカケルの笑い声が聞こえた。あと少しで楽しく暮らせたのに!
畜生がっ……!お前の声さえしなければ……こんなことにはならなかったのに!薄れていく意識の中、カケルの笑い声が響いているような気がした。