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美人と佳人
美人と佳人とは、何が違うのか。
「天の成せる麗質、これを美人という。刻苦して域境界を開いた人、これを佳人という。美人はつくりつけ佳人は際知らず、美人佳人いずれも花のごとく、見てよし語ってよし触れてよし・・・・・」
『幸田家のしつけ』という本に出てくる話である。
幸田文の通ったミッション系の学校の、バイブルクラス担当の先生は美しい女性ではなかったが、ある日、こう語ったという。
美人とは、生まれながらにそうなった人。
佳人とは、自分で努力してその美しさに達した人。
佳人についていうならば、自分の考え方、立居振る舞い、生活の仕方に気をつけ、努めることで佳人ににはなれる。
そして、その達する境地はどこまでも上がることが出来るのだという。
きれいになりたい頃、私は鏡から失望と悲しみをうけとった。(『ちぎれ雲』所収「れんず」)
自分の容姿に悩んでいた幸田文がいたという。
私には、写真で見る佇まいがとても素敵に見えていて、誰にでもその時期には持つようなコンプレックスを幸田文も持っていたのか、と雲の上のひとである作家に、親しみすら感じてしまった。
バイブルクラスの先生が数日後、文に向けて、佳人になろうと努力してみないか、と言った話が載っている。
先生は、文の中にその素質、努力を見通したのかも知れない、と。
父露伴の反応は・・・。
「なるほど人の云うようにお前は美人ではない、佳人といものでもないらしい。さればと云って人を驚かせるほどの醜女でもないし、まして悪女の力量もありはしない。親から見ればただ哀れなやつに尽きる。」
私ははじめて慰められ、ほっと安堵した気もちになったが、ほろほろと泣いた。
とある。
父親として娘に、顔が美しいとか、そうでないとか、美醜にこだわるな、そうしたことにこだわる人間こそ哀れな顔をしている、と言いたかったのだろう、と。
そして、その言葉を真正面から受け止め、父を畏敬していたからこそ、その真意は娘に伝わったようだ。
それだけではなく、露伴は文に美しく見えるコツを教える。
器量が悪いといえば、「生気の乏しい器量よしより、不器量でもいきいきとしているほうが人相よしだ」と、また口が大きいといえば、「歯をむき出しにしないこと」、ずんぐり指を嘆けば、「そういう手には力があるはず、きゃしゃな手より強いだろう」と短所を長所に転換してみせたという。
幸田文は、学校は知識を加えてくれる”プラス教育”だが、家庭では出来のわるい部分、弱いところを養ってやる教育が良いように思う、と後に『季節のかたみ』に書いている。
美醜と、その人の本質とは別のところにあることを、若い頃にはなかなかわからずに悩むけれど、こんな風に短所を長所に変えて、慰めるでもなく褒めるでもなく、ただ、事実をそのまま語って納得させてくれる親の、懐の深さと凄さを思った。
幸田家ならではの教えは、智慧に満ちている。
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