デザインの本領を見たMARGIELA THE HERMES YEARS at Antwerp
マルタン・マルジェラというその人の、インタビューはいくらか読んでいる。
その熱狂の時代を肌で感じてはいないばかりか、彼がアトリエにいた頃のコレクションをタイムリーに見ることができなかったわたしにとって、インタビューと残されたコレクション写真たちが唯一、あの熱狂を仄かに感じる触媒のようなものだった。
タビブーツを初めて見たときは目が離せなかった。
ブーツとしては異形の形なのに、なにやら佇まいは美しくスタイルに溶け込む。なにより親近感を感じたように思う。
それはわたしの意識の中にある日本人としてのそれからくるものかもしれないし、マルジェラが作り出す日常感のせいだったかもしれない。
マルジェラの存在を知ると同時に、マルジェラがファッション業界にはもういないということを知ったのに、わたしはその事に心底落胆したのを覚えている。知ったことではないという話である。
その日から、もう届くはずもない彼の朧げな残像を追い求め続けている。
私がメゾン・マルタン・マルジェラの熱狂的なファンかというと少し違う。私がずっと気になり続けているのは彼のその思考と、故に生み出されるその思考の産物であって、服も靴もバッグも、気に入ったモノしか買わない。
また、先に言っておくと哲学を捉えようとしているわけでもない。
デザインをする人間として、またビジネスをする人間として「マルタンマルジェラ」の”落とし所”に興味があるということだ。
8/17までベルギーのアントワープMoMuにて行われているMARGIELA THE HERMES YEARSに行ったのもそのためで、まだまだ未熟な自分への経験値と最近特に感じていたモヤモヤとしたデザインへの回路が少し刺激されるのではという気持ちもあった。
マルジェラはいつもそんな風に、何気ない驚きをくれる。
それはガリアーノのような目を丸くして驚く類のプレゼントでもなく、いっときのゴルチエのような難解さもない。ドリスのような象徴的なモチーフもなければ、リックのようなパワーに満ち満ちあふれた個性でもない。
日常の何気ない物事をちょっとした視点で面白くしてくれる、万人に向けられたささやかな驚きだったようにわたしは感じている。
そう、マルジェラの熱狂は幅広い人種、幅広い年代、ジェンダーの垣根を超えた先にあったように(その当時を見ていない人間は)感じるのだ。
今回のアントワープの展示は、それをさらに体感した展示だった。
わたしたちが『知りたい』と思うものは公に示され、何を伝えたいのかがわかりやすく、明確で、迷いがない。
必要然として全てのピースが並べられていたし、何故そこにそのピースがいなくてはならないかがとても明確だった。
まるでマルジェラ本人が展示を監修したのでは。と思うほど、考え抜かれた、頭の良さが伺える順路と説明だった。
いつだってマルジェラの提案はスマートでクレバーだ。
私が特に好きなのは、ぐっとVが深くなったセーターで、あれは「Vネックのセーターをかぶると髪が乱れるの」と言ったモデルの言葉がきっかけで、肩から下ろせるほどに深くVが開いたセーターを考えたのだという。
結果のアウトプットはその理由を無視しても欲しくなるほど、美しく普遍的なシルエットになっている。
これぞデザイン。
ふとその言葉を聞いたときに問題意識を持ってデザインソースと捉えるか捉えないか。
その段階から試されているのだろうと思う。
商品を作るときにいつも思うのだが、世の中の営業やマネージャーや経営者は、打ち合わせの中でのみヒアリングを完結させ、商品に反映させようとするが、ほとんど意味がないと感じる。その狭い世界に答えはないように思う。
人の目を気にしないふとした瞬間。
カフェでの会話。売り場でのつぶやきや表情。
そういうものにこそ「破片」がある。キラッときらめくデザインの破片。
机に張り付いて、ボディと見つめ合うだけで生まれるデザインがデザインたるかと言われると、もう一つ前の段階が足りないのかもしれない。
マルジェラのコレクションを見ると、そういうことをいつも反省する。
肩にひっかけてマントのように着ることができるジャケット。
それが机とパターンと打ち合わせのなかで生まれるだろうか。
生まれない。と私は思う。
エルメスでのマルジェラのクリエーションは、当時はあまり歓迎されなかったそうだ。
でも確かにそうかもしれない。
ラグジュアリーメゾンの服は、大衆に向けられたものではないのだ。
値段もそう。素材だって手入れに手がかかるかもしれない。デザインの切り口や内容よりもアウトプットなのだ。
反して、マルジェラの服は突飛なものほど切り口はわかりやすくシンプルだ。
「え?なにこれ?」と思った次の瞬間にはハッとするディティールと気づきで私たちの思考を明るくしてくれる。シナプスが反射的に繋がるような感覚。
それを証明するようなことがこの展示で起きた。
(ベルギービールが飲みたいあまり)展示に付いてきてくれた我が相棒・旦那氏は、まるで服のことなんてわからない「ま・・・まるげら?」とか言っちゃうくらいの薬剤師免許保持のMR。
でも展示を見て彼はとても目を丸くしていた。
「うわあすげえ」と初めて言った。
ギャルソンの展示も、Diorの展示も確か一緒に行っているけれど、これは初めてのこと。
なぜ展示されるのか、なぜこの服に惹きつけられるのか、なぜこのデザインなのか、「言語化してわかる」ことができるからだ。
彼はあの日以来、少しだけ服に対して興味を持つようになった。帰って早々に「ユニクロでもZARAでもないものが着たい!」と言って断捨離をしていた。
こうでなくては。
ユーザーが「わかる」ということ
わたしたちが「つたえる」ということ
その重要性を体現したデザイナーをこんなにも考えているのにわたしたちは時に独りよがりのデザインをしようとする。
そういうときの私は
デザインを使う人間でも、ファッションを操る人間でもなく
デザインに使われ、ファッションに操られることでアウトプットをしている。
ものごとはシンプルだ。
だから私はマルジェラに惹かれる。
「自分が出て語ることはない。服が語ってくれるはずだ」というマルタン・マルジェラのその姿勢が、業界人ではない、大衆の一人に通じたということをこの目で目の当たりしたのだから。
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