与良さんぽ
「高浜虚子」という方をご存じでしょうか?。
俳句好きな方なら、すぐにわかるかと思います。
「遠山に日の当たりたる枯野かな」
…のように、五七五の律を堅守した句が特徴で、やもすると平坦な趣かと思われますが、スッと情景が浮かぶのは、それが写実的であり、また心を砕いての故だと思います。
虚子は戦時中に小諸市に家族で疎開をしています。
…話が逸れますが、当時の小諸には虚子を始め、小林亜星氏や、故永六輔氏も疎開をされていました。
未来の巨星が集っていたわけで、やはり小諸は「持ってる」のでしょうね、何か。
閑話休題。
虚子は小諸で四年を過ごした後、鎌倉へと去ります。
俳人としてだけでなく、小説家としての名声も持つ虚子ですが「森田愛子」という若き女性と出会っています。
愛子は、虚子の弟子である「伊藤柏翠」と療養所で出会い、その縁で句を詠むようになります。
当時、鎌倉に住んでいた虚子も彼女と会い、持病の結核が悪化し、故郷に帰った彼女と共に、山中温泉で仲間たちと遊興など勤しんだそうです。
細かな経緯は、別途調べていただくとして(汗)…私の今回の小諸行きの目的は、虚子の記念館を訪れることと、記念館から北へと上る「与良地区」を歩いてまわる事でした。
虚子の、ややもすれば平板に思える句に、私は何故か深い郷愁のようなものを感じ、琴線に触れるものを感じるのです。
戦争の最中の混迷の時代に、軍靴の音もいくつも聞こえたであろう山里の街で、ひたすら句を詠み続けた、彼の「心象」に出逢いたかったのです。
記念館で私は「不思議な邂逅」を経験します。
「これは…多分これは…」
…脳裏に導き出されたのは「すくらっぷ・ブック」の、あの名シーンでした。
先に書きましたが、虚子には、美しくも儚い生を全うした「森田愛子」という孫弟子がいました。
愛子との時間は、小説「虹」の中に、写生文として詳しく描かれています。
「虹が立っている」
…と、車中で虚子は言います。
「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしましょう。今度虹がたった時に……」
彼女はそう応えます。
遠く敦賀と鎌倉を結ぶであろう、大きな虹。
虚子は愛子に
「是非いらっしゃい、杖でもついて」
…そう応えます。
当時虚子は60の齢を越えていたはずですが、私にはどうもこの独白が照れのようにも感じられ、そしてまた愛子は、我が身の不便を想い、また、残された時間を憂いたのでしょうか「ええ、杖をついて」と返したあとは口をつぐむのです。
想像ですが、愛子は虚子を愛していたのだと思います。
親子以上に年の離れた二人ですが、愛子は虚子に父親への思慕を重ねつつ、また、ひとりの異性としても愛していたのだと思うのです。
だからこそ「杖をついて」という言葉に、我が身の不便を思い、若い女性として恥じたのだと。
これも想像ですが、虚子は愛子の気持ちを感じ取っていたがゆえに、何度も「虹」を題としての、句の
往復を繰り返し、彼女の亡き後も、小説として残したのではないでしょうか。
「すくらっぷ・ブック」の中でも、人気が高い1話に「千百回 日は昇り」があります。
雅一郎が、カナの部屋で彼女の日記を盗み見てしまい、その内容にショックを受け、自分がカナに好かれていないのではないか?と自信喪失します。
…この辺りの描写は、カナの初出の時から始まっていて、ほぼ最後まで埋もれないテーマでしたが…結局どこまでもカナは晴ボンのことが好きで、この回においても、雅一郎との仲違いをつなぐのは彼であって…カナは作中最後まで晴を愛していたはずです。
晴は公園の階段で、ホースの水で虹を作り出し、カナに渡るよう促します。
カッコイイですね、晴ボン…でも、晴だからこそ、カナは「乗った」のだと思います。
愛する人の言葉と、行為だからこそ、彼女は動いた。
…そしてそれはおそらくは「シンパシー」であり、卒業し、別の高校に進む彼らの「お別れのセレモニー」だったのでしょう。
「虹を渡っておいでなさい」と、美しい女性に語る虚子。
その寂しさと、結ばれざる運命に向き合い、句の往復で互いの心を伝え会う二人。
会うに会えぬ想いを虹に託す虚子と愛子。
そして、敢えて会うことなく、互いの運命を受け入れ、振り返らずに前を行こうと誓い合う晴とカナ。
選んだ道先は違えども、底流にあるのは互いへの「思いやり」であり、純然たる愛情なのです。
記念館を出て、虚子の旧宅へ立ち寄ります。
土壁の小さな家に、旧い硝子窓にあたった午後の光が、ぼんやりと明るく輝いていました。
一度大通りへと下がり、すぐに北へと向かう小路を上っていきます。
道路はモダンにカラータイルが張られ、そこだけが妙に明るい気がします。
ページの見出しに張った写真は、与良の大日堂です。
あちらこちらに顔が減ってしまったのか、消えてしまっている石仏があります。
道の脇には、そう古くもない住宅がポツポツとならび、雑草の中に埋もれるようにして、祠や石仏が傾いでおりました。
昔は土の道であったろう小径は、もしかしたら今よりも賑わいがあったのかも知れません。
稲刈りが終わった田圃には、何百羽いるのだろう、椋鳥とおぼしき鳥が、稲粒を食んでおりました。
この辺りに虚子の居宅があり、家族と住まれていたそうです。
遠山というのが浅間なら、虚子は北を向いて句を考え付いたことになりますが、その方向には今は立派な幼稚園が建っていまして、見通しはあまり宜しくない。
視線を下へと降ろしますと、これまた新しくて立派な小学校があります。
さすがは教育県長野!と言ったところでしょう。
小さな池には、午後だというのに薄氷が張っていました。
与良での景色は、どこかで見覚えがあるような場所が多いです。
いく先生がプロットを考えるときに、どこか野原のような、住宅地のような場所を徘徊したそうですが…その風景に似通っています。
当時にはまだ幼稚園も無かったであろうし、もしかしたら小学校も無かったかもしれません。
しかしあの辺りで、青年がひとりブツブツ言って歩き回っていたら…そう思うと、ちょっと不気味です(汗)。
小学校の前を通り抜ければ、まもなく北国街道へと出ます。
レトロな店が多く残る、散歩には良い道です。
18の時から通いつめた街ですが、まだまだ知らない場所があります。
知らない場所と、知らない季節があります。
「こもろドカンショ」は、祭りの多い小諸で最大のお祭りと思いますが、見たことはまだありません。
名物も数多く、また、それらは奇をてらったものではなくて、本当に美味しいものが多いです。
一言で言えば、歴史がある、ということで良いでしょう。
古くからのもてなしの美学があり、それが生活にも馴染んでいるのでしょう。
多くの文学作品が、この地で生まれているのは偶然ではありません。
小諸を物語のバックボーンに据えた「すくらっぷ・ブック」が、日本の津々浦々で読まれ、評価されてきたのは、小諸という場所が持つ、その独自性を、作中から濃密に感じられるからだと思います。
小諸では「私が私でいられる」気がするのです。
心を休ませる場所として、私はまた、小諸の何処かを彷徨います。
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