旅(もしくは人生)とカメラ(前編)
幼児期の事で鮮明に覚えている記憶がある。
幼稚園の砂場で山を作り、そこにトンネルを作っている自分だ。
ただ只管に穴を開けようとしている。
スピーカーから先生の声が聞こえる。
どうやら私への呼び掛けのようだ。
お昼寝の時間であるらしく、部屋に戻りなさい、と言う。
…嫌なこった。
折角ここまで開いた穴を放り出して寝ろというのか?。
つまらん…なんてつまらないんだ。
私は先生の声を無視しようと決めた。
大事なことがある。
だから邪魔をするんじゃない。
さあ、ここからだ…というところで記憶が切れている。
昔から変わり者ではあったという自覚はある。
自分が絶対に必要と感じたものは、何をさておき完遂する。
それがどのように下らないものであるにせよ。
しかし、年月が経って、建前と言うものの大事さを知り始めるに連れ、その意地っぱりの気風は削がれていった。
むしろ、ならば望まねば良いではないか、初めから期待せねば良いではないか、と思い始める。
そんなどこかシニックな考え方をするようになって、そこに思いがけずに大病という闇が訪れる。
ますます自省は深まって、欲望の達成から逃げるようになった。
しかし、そんな中でも涸れない泉があった。
それが「ひとり旅」だ。
現在でも、一人で旅をするという気持ちだけは輝いている。
そしてそこには、必ず「カメラ」が加わった。
写真と旅は、私にとっては一蓮托生であり、同行人であると言える。
次回はそのことを、もう少し掘り下げてみたい。