一頭の羊として
久々に「すくらっぷ・ブック」の話です。
連載が終了してもう40年以上経つのだから当たり前ですが、時代も当時とは随分と変わりました。
時代が明るかった、と言えば簡単過ぎますが…人間関係も今ほどギスギスしてもおらず、特に中高生等は、目には見えない夢のような出来事に憧れを持っていた気もします。
いじめが無かったとは言いません。
受験もやはり大変でしたし、青春の明るい材料とは言えないものでした。
それでも「すくらっぷ」のような世界を出鱈目と片付けるような事は出来なかったし、デフォルメはしてあったけれど、恋心に強く影響を受けた日々であったことも事実です。
友情、というものを正面切って語るのは照れがあったけれど、大事な守るべきものだという自覚もありました。
時に移ろいやすく、放置しておけばバラバラと砕け散ってしまうのもクラスメートという繋がりですが、それを纏めたいと動く生徒や、教師たち大人の存在も、ちゃんと機能していました。
「すくらっぷ」が、当時の子供たちにとって時にバイブル化された理由は、やはり皆が「迷える子羊」であって、羊飼いを必要とし求めていたという経緯があったからだと思います。
教師とは違う意味で当時の子羊たちを引き連れて、遊牧の旅を続けた羊飼いが、小山田先生だったのでしょう。
夢見る子羊たちを引き連れ、芦ノ原中学という船が行く。
皆が同じように海を目指しながら、川を下っていく。
…先の見えない土地に、仲間と信じる友と共に進む。
それは不安でもあるが、胸踊る時間であったに違いありません。
今の学校には、生徒を乗せたまま、海に向けての小旅行に漕ぎ出す能力など無いでしょう。
手に手に櫂を持たされて、自分の好きな方向へ向けて漕ぎなさいと船頭は言い放ちます。
羊飼いのいない羊の群れは、みな不安でいっぱいになっているでしょう。
だから、頼れそうな木の周りから離れられず、やがて草もなくなって蹲ってしまうのです。
「すくらっぷ」が教えてくれたのは
「生きていくためには隣人の手を掴むべきだ」
…ということです。
実際、様々なアクシデントの起きた中で、差し伸べた手を迷わずに掴めたことで、私は生きる伝手を見つける事が出来ました。
信じない事より、信じることを優先させたからこそ、心豊かという状態を知り、保ち続けていられる。
「すくらっぷ」は、私にとってもバイブルだったのです。
もう、あの頃と同じような時代は巡っては来ないような気はしますが…私は生き方を変えるつもりはありません。
青空のある方へ…夢というものがその下にあるとすれば、私はそこに向かっていきます。
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