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夢よ、さよなら。

どうやらキヤノンのEFレンズが、大量にディスコンされているようだ。
一部のEF-Sも対象らしい。

CANONよ、お前もか?なのだ。

いかに一眼レフというカメラが、コストのかかるカメラだったかということがわかる。
フィルム時代ならまだしも、デジタルになってからは、ある意味約束されていた事なのかも知れない。

しかし当の一眼レフも、昔はライカの連動距離計の複雑さに屈してのものだった。
それが電子デヴァイスの台頭により、消えていこうとしている。
盛者必衰の理ではある。

高齢化によって、目の調子が覚束無くないのであれば、今でもきっと私は一眼レフファンだったと思う。
光学ファインダーの世界は、風景を所有するという欲望を叶えてくれ、そしてそれは同時に「日常から非日常へと」自分をトリップさせる入り口だ。

覗いているだけなのに、どこか恍惚感がある。
エロチックなのだ。
デジタルカメラは「モニター」というデバイスをファインダーに取り替えて装備した。
モニターは、画像を離して見るから、中間には空気の層がある。
中間に日常を挟んでいる。

これが不純なのだ。
目で見ているのではなくて、脳で見ている気がする。
グラビアを見るように、またはテレビモニターを見ているように。
興奮はするが、そこには生な物体が無い。
ファインダーは、被写体との共犯関係というものがあり、それが多量のアドレナリンを放出している。
幸せになるのである。

一眼レフが消えることは、実は小さな事ではないのだ。
ひとつの文化が消えるということなのだ。
荒木経惟が、バカでかいペンタのロクナナを構え、アイレベルファインダーで煽るようにヌードを撮っていたのは、間違いなくエロスであり、性の交歓だったのである。

時代は抑制過多の傾向を強め、人は手にはいるだけの幸せを求める。
掌に掬えるだけの水を求めて、毎日汗を流し続ける。
このパラドックスを是正する画期的な方法は、今のところはない。

夢が、ひとつ遠ざかろうとしている。
令和から昭和を見送ろう。
いざ、去らば!!。

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