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#173 夫婦ごっこというお芝居を、粋に楽しむ
夫婦が夫婦であるために、忘れたらいけないことって何だろう。
それぞれが自分の役割に対して自覚的なこと。
それぞれが自分の足で立っていること。
共に人生を歩もうと恋人以上の関係を約束し、ふたりは夫婦となる。なんてロマンチック… いや、リアリスティックなんだ。急に一番身近な身内になるなんて、身も蓋もない。毎日顔を合わせて互いの素を見せ合っているうちに、相手への思いやりや遠慮が減っていくのを感じてハッとしたことってないだろうか。
気がついたら「支えてあげたい」と思っていたはずの人に、逆に全力で支えてもらっていないだろうか。
「気を遣われなくなってきたな」というのは、気を使っている側よりも使われていた側の方が気が付きやすいと思う。「なんだ、あれは遠慮していたのか。本来はこうなんだな」と。そうやって少しづつ互いの狂気を見せ合って、関係が熟成されていくのを馴れ合いと呼ぶ人もいる。馴れ合いがいいとか悪いとかの話ではない。それが互いに承知の上だと、わたしは「粋だなぁ」と思う。
やりにくそうなご主人でも、「あの人はあんなだから」と笑顔で一歩下がるような奥様が、実は手のひらで上手にご主人を転がしてらっしゃるのを見た時。うわぁ心得ていらっしゃる…!と興奮したけど、そんな夫婦にはあまりお目にかからない。わかっていて転がされているご主人は、本当のところきっとそれで幸せだし、奥様もその塩梅が絶妙、という粋な大人のカップルなのだ。
ところがこれが、大体うまくいかない。
「相手の甘えを全く許容できない妻」と「察してちゃんの夫」でもダメだし、
「妻の上に君臨しているつもりの夫」と「疲れて言うなりの妻」でも上手くいかない。
互いに「この辺までなら許されるな」というラインを見極められる才能がいる。よその人にはわからない方法ででも、ちゃんと自分の本音を相手にチラ見せできる愛嬌がないと難しい。毎日同じ屋根の下、顔を突き合わせて食事するのに、片方がじっと我慢するのはてんでおかしな状況じゃないか。辛すぎる。
「察してほしい」なら相手がはっきりとそうわかるように伝える努力をサボっちゃだめだし、「なんで偉そうにしてんのよ」と思っているなら「あなた随分偉くなったのね、だったら一人で何でもやってごらんなさい」と1日家事を放棄したっていいと思う。で、それを上手にやるのが大事なのかな。
やりすぎて大喧嘩になって取り返しのつかないことになっても困るし、それは本来の目的じゃない。あくまでも「この辺までならいいですか?」のラインを探ることが、素直になれない大人の嗜みだと想像している。
腹に一物抱えていても、大きな包容力で持ってそれごと包んでしまえるような懐の深さも欲しい。静かに微笑んで青い炎をちろちろと燃やしていることは、たまに相手に見える程度なら大丈夫。と思う。
大事なのは、転がされたい人が「自分は転がされ役だ」とわきまえていて、それを楽しめる余裕があること。転がす人は「自分は転がす役」として、さもそんなことしていませんという顔でひょいひょい転がしてやること。なんか嘘っぽいお芝居みたいだけど、どちらかが役割を放棄したり、片方に任せっきりにしてはいけない本気のお芝居なのだ。
他にも「強気な妻と、控えめな夫」でいくなら妻が弱気になった時は夫がサポートして初めの設定を変えてみるか相談したっていいだろうし、それも楽しそう。
舞台裏ではどんなに素直に話し合っても誰かに見られるわけじゃないから平気だし、回を重ねればそれだけ互いの理解も深まる。
夫婦って、はじめからちょっと無理のある設定なんだと思う。だから各々が自分を失わずに、でも相手に頼りきらずに演じ切らないとお話が進まなくて困ってしまう。困った時は、夫婦ごっこしてるんだと思って一旦舞台裏に引っ込む。状況を二人で判断して、お互いの役割を確認してお芝居を仕切り直す。そういう味わい深さもあっていいんかなと思えてきた。
るる