#97 わたしたちはわざわざ回り道してしまう
洗い物しながら考えてたこと。
偏愛を極めることは容易になったのか、それとも難しくなったのか。
何かすごく好きなことがあって、
自ら学び、教え、工夫するうちに
「それに関して自分はかなりな方ではないか」と自信らしきものが芽生えても
一歩外に出れば、自分の遥かその先を軽やかに飛んでいる人が無限にいる…
あぁ自分はなんと小さいんだーー
すると急に、大切だったものが色を失ってつまらなく思える
そんな経験を何度したことか。
一方で知識はどこにでもタダで転がっていて、
取り入れようと思えば無限に拾うこともできる。
広く浅く、時には深くでも、知ることは昔に比べると格段に難しくなくなっている。画面を眺めてChatGPTに尋ねれば薄っぺらい評論だってできてしまう。
もちろん嘘の世界だってあるし
到底手の届かない世界だってあるとも。
だけど、だけどだ。
それでもまだ、積み上げ方や切り口が違えば、
見せられる世界も違うのではないかと淡く期待したいのです。
ひとり展覧会でいいのです。
好きで好きでどうしても好きならば、
下手に先を行く人の成功事例を調べたり(勝手に落胆したり)せずに
一度とことん突き詰めてみるのは良いのかもしれない。
自己満足でいい。誰かの評価のためにするのじゃないから。
わたしはそれの「何が」好きで
それは実際「どう」良くて
そのおかげでわたしは「こんなふう」になったのよ
と朗々と語れたら
もうそれは立派なヘンタイではないかと思うのです。(もちろん良い意味で)
たとえ自分が産み出したと思ったものが既出のアイデアだったとして
そんなの当たり前なんだと思います
自分が思いつくことななんて、きっと世界のどこかで他の誰かも思いついてる。
だけどその誰かに出会えた時自分が立派なヘンタイになれていたら
「あぁわたしなんて大したことないんだ」とはならずに
「ここに仲間がいた!」という喜びになる可能性がないか、
それはピュアにわたし自身であると自信を持って言えることが
後の自信や幸福感にじわじわ効いてくるような、
なんだかそんな気がしました。
(もうちょっと良い言い方がしたいところ)
お手本にしたくなる素敵な対象は溢れているけれど、一つ一つに目を凝らし真似るのではなく、薄目で「いいな」の感覚だけを掬い取って
自分で選び取ったり作ったり組み合わせたりする時こそ
自身の感覚を研ぎ澄まし、目を見開いて考えることができたら
もうそれは模倣じゃない立派なオリジナリティが生まれる時が近づいている様な、そんな気配を感じて人は一皮剥けるのかなぁと
とりとめもなく考えて、これから何を極めてみようかと
気楽な想像に耽るのでした。
どこにどんな刺激や発見があるかわからないけど、それをSNSに求めるのは
近道なようでものすごく遠回りなのかもしれません。
と言いながら今晩のメニューが思い浮かばなくて検索しようとしている現実に、もう笑うしかないわたし!
誰か助けてー
るる
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