#138 そこに停滞するもの
よせばいいのに、大して食べたいとも思っていないチョコを口に入れてしまったから、軋むような甘ったるさがわたしの中で停滞している。
そのことに苛立って急に歯を磨く。
頼まれてもいないのに、夫のスラックスにアイロンをかける。
丁寧に皺を伸ばして当て布をし、自分も一緒になってスチームを浴びながら1本、2本と続けてかける。だんだんムキになってきて、チャックの周りまでなんとかしようとする。仕上がりに少し満足して吊り下げる。
ろうそくの火がゆらりと大きくなって、ふっと消えた。
なんだってこんなことしているんだろう。
ついさっきまで頭の中の世界で平和にぼうっとしていたのにな。
1人でいても感情の波が鎮まらない日がある。雨なのに、いらない考えばかり浮かんでは消える。
このスラックスはわたしよりも夫のことを知っているかもしれない。よそゆきの顔をした夫がどんな言葉を話し、どんな感情を噛み殺し、どんな悦びを浴びたのか。わたしはそれをぺたんこにして布の中へ押し込める。押し込めておきながら、わたしは妻でいたいのだと気がついた。
スチームでは消えない匂いにファブリック用スプレーを振りかけて
別に赦したんじゃない、と思って強気になる。スラックスを持ち上げると、床がしっとりとしていた。
わたしにだって、わたしにしか知らない顔がある。
夫には決して見せないわたしは(ここにもいて)すっかり健康で、のびのびと暮らしている。お土産にもらった美味しい紅茶は金平糖の缶に入れて戸棚の中にしまってある。全部わたしが飲む用に。缶を開ける度にその香りが懐かしい感情を連れてくる。
一番下の引き出しの中に本をしまってあるけれど、夫はきっと開けたこともないだろう。本の間にわたしのノートが、息子からもらったかわいい手紙が挟まっていることだってきっと知らない。ノートの中にいる黒いわたしのことも。
わたしは夫にそれを知って欲しいとは思っていないから、それは今日も堂々とリビングの一角にじっと停滞している。
なんて小さな抵抗だろう。
なんて小さな復讐だろう。
だんだんどうでも良くなって、読みかけの本を開く。
大雨の中を歩いているだろう息子のことを考える。迎えに行こうか。
もうすぐ「わたし」だけの時間が終わる。
あっという間だったな。
るる
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