星読み占師 飊鏜翠李(ひょうとうすいり)迷いの羅針盤
EP.1 出逢い
「誕生日おめでとうー!浬桜」
ランチコースの最後、デザートの段階になって店内の照明が一段落とされ、向かいに座った友人2人から祝福の拍手が起こった。店員がうやうやしくキャンドルの炎が揺らぐケーキを運んできて「おめでとうございます」と真ん中に置いて去っていく。その様子に周囲のテーブルからも祝福の拍手がパラパラと沸いた。
「わあ!ありがとう」
鬼灯浬桜(ほおずきりお)は半分は予想していた展開にも、サプライズを受けたときの一通りのリアクションをしてからホールケーキに差されたロウソクを吹き消した。タイミングを図ったように店内の照明が元に戻り、このテーブルへの注目も解かれる。ホッとしながら浬桜は、ロウソクを抜く2人の手元を見つめた。2人とも左手の薬指には約束の証である指輪が光っている。残された穴の空いたケーキを見ていると、浬桜の浮ついた気持ちはみるみる萎んでいった。
「ところで明後日はどんな予定?」
店の人にケーキを切り分けてもらうようお願いしたところで、圭都が身を乗り出した。
「誕生日当日で休日なんだもの。一日デートよね」
由真は期待を込めた視線を向けてくる。
2人とも忘れたのだろうか。浬桜はなるべく気持ちが顔に出ないよう、頬に緊張を込めた。
「特に。何の約束もしてないんだよね」
結婚して2年になる圭都も、もうすぐ婚約者が海外赴任から戻ってくる由真も、自分のことで頭が一杯なのだ。いちいち長年付き合った恋人への浬桜の不満など覚えていないに違いない。
「何もってそんなことないでしょ」
「サプライズとか?」
相変わらず能天気な恋話を続ける2人に浬桜の愛想笑いも色をなくしていく。
「多分、ないと思う。だって前回のデート、一ヶ月以上前だよ」
アルバイト先で知り合った由真と圭都とは年齢は違えど、社会人になってからもたびたび集まる仲だ。浬桜にとって気の置けない友人であり、何かあったら真っ先に相談するのもこの2人、のはずだった。
ただやはり先に結婚した圭都とも、海外赴任から戻った恋人と近く結婚する予定の由真とも、徐々に会話のテンションが噛み合わなくなってきたのが辛いところではある。安定した関係になった相手の愚痴など、惚気にしか聞こえない。
「付き合って何年になるっけ?浬桜たち」
「5年、かなぁ」
「浬桜、来年三十になるんだよ。分かってんのかなぁ、欽ニは」
浬桜が呼ぶ「欽二」というのを口移しに、会ったことのない浬桜の恋人のことを圭都は勝手に「欽二」と呼び捨てにしている。
「結婚チラつかせるのも疲れるんだよね。こっちが焦ってるみたいに思われるのも心外っていうか」
一番結婚したいという気持ちが高まったのは、出会って半年で結婚を決めた圭都の報告を聞いた時期だった。勤めている会社でも立て続けに結婚や出産などのニュースが聞こえてきたのもあって、次は自分がと思ったのも事実だ。その気配すらない欽二をどうしたものか、と2人にもたびたび愚痴混じりで相談していた。欽二にそれとなく結婚のことを持ち出してみても曖昧な答えしかなく、どうやら若くして結婚離婚を経験した兄を見てあまり積極的でない、という絶望的な考えを聞き出しただけだった。
「結婚か別れるかどっちかにしろって迫ってみた?付き合って長いから安心してんのよ、欽二やのやつ」
「それであっさり別れるって言われたらどうしよう」
三十歳という年齢がリアルに迫ってくるようになって、一層浬桜の気後れは濃くなった。欽二はそもそも結婚には余り乗り気ではない。結婚を急かした途端、自分のことを面倒だと思い始めてもおかしくないのだ。でも何も伝えなければ、このままズルズルと変わらない関係が続くだけだ。
5年以上の付き合いだと、段々もデートする場所もなくなってくる。最近では会う約束をしても型通りで義務的な時間をおざなりに過ごすだけだ。毎年夏に行っていた旅行も今年はついに「高いし混んでるし」と欽二の気が乗らずに流れた。あれこれ行き先に思いを巡らせていた浬桜は、日帰りでいいからと粘ったのだが結局欽二が首を縦に振ることはなかった。春に異動になった部署に慣れるまでが大変だったようで、その頃から休日に会えない日が続くようになっていたのだ。休みの日くらいゆっくり眠りたい、というのが最近の欽二の決まり文句になった。
「浬桜みたいなのが豹変したら焦ると思うけどなー。それでダメなら別れちゃえ!」
圭都は付き合う時にも、結婚の時にも「ハッキリしないと別れる!」と彼に迫ったのだと言う。昔から自分の意見は明確に表に出していたし、嫌なことは嫌だとちゃんと断れる性格だった。気が強いと敬遠されることもあるようだが「それで離れるなら仕方ない」という考えで、羨ましいほどさっぱりしている。不思議と「あの子だから仕方ない」と思われ、周囲のウケもいい。
「みんな圭都みたいにはいかないわよぉ」
由真はおっとりとそう言い返す。高校時代から付き合っている彼が海外赴任になった時、待っていることを選択したのは由真のほうだった。周囲から別れることになるよ、と諭されても揺らぐことなく送り出したのだ。いつもおっとりしているけれど、実は1番芯が強いのは由真だと、浬桜は常々思っている。
「どうしたら2人みたいに結婚しようって言ってもらえるんだろう」
結婚、結婚と口にはするけれど、果たして自分は本当に結婚したいのだろうか。もうそれすら分からなくなっている。
「私の場合は半ば言わせたようなもんだけどね」
「ねぇ、さっきから気になってるんだけど」
気づくと由真が身を乗り出してひそひそ声を出してきた。つられて、浬桜と圭都も耳を差し出すように乗り出した。
こ「お隣のテーブル、お一人なのかな。すごく優雅にアフタヌーンティーしてる」
浬桜は、由真の言葉に控えめに視線を送る。確かに入ってきた時から気にはなっていた。浬桜からは斜め前の位置にあり、向かいに座る2人からは真横になるのだけれど、豊かな長い黒髪を後ろで結え、シックなブルーを基調とし、大きな花が胸元をあしらった着物を着ている。大きな瞳はくっきりと縁取られ、艶めいた唇は小さな花びらのようだ。
しずしずと紅茶を口に運び、トレーに乗った色とりどりのスイーツやセイボリーを美しく彩った指で上品に摘んでいた。
そこへ浬桜たちのケーキが運ばれてきて、いったん話は元に戻る。
「ともかく、今年のバースデーになんもなかったら考えるべきだと思うけどね、私は」
「でも浬桜の気持ちが大事なんだから、そんな急かさないの」
2人の会話を聞き流しつつ、浬桜は逡巡する。そもそも、ただ欽二が好きで一緒にいたいだけならば、結婚するしないは関係なく側にいられるのではないのか。結婚に前向きでない欽二を受け入れてこそ、好きだと言えるのではないか。いや、だからこそ、欽二のほうこそ結婚をしたいという浬桜の望みを叶えたいと思ってくれてもいいのではないのか。好き、ならば。
ぐるぐる回る思考で口に運ぶケーキは全く甘味のない、白けた味に感じる。
デザートが終わり、皿が下げられたところで浬桜は一旦化粧室に立った。2人の前では出さずにいたスマートホンに、もしかして欽二からのメッセージがあるかもしれない。トイレで確認するつもりだった。席を立つ時に隣を確認すると、いつのまにか着物の彼女はいなくなっている。
トイレのドアを開き、鏡の前に立つと後ろに人影がすっと現れた。驚いて凝視すると、あの隣の席の彼女がいるではないか。思わず声が出そうになるのをこらえ、浬桜はバッグの中からスマートホンを取り出した。
隣の手洗いに立った人影をちら、と確認すると着物と思っていた衣装は実はドレスであったことがわかる。胸元は着物の合わせ襟になっていたが、腕の部分は袖口に向かって広がっていて、ベルトで締めたウエストから下はすとんと落ちるスカートになっている。座った姿勢だと着物のように見えていたが、美しい花柄は胸元と、スカートの裾部分にあしらったシックな着物ドレスだったのだ。
「あの…」
気づくと凝視していた浬桜に、遠慮がちに視線が向けられる。は、と気づいて浬桜は「とても、素敵なドレス、ですね」と言い訳をするように答えていた。
「あの、あなた」
言い訳を見透かしていたように、大きな瞳をこちらに向けて彼女が言葉を繋いだ。
「あなたのお誕生日、さきほど聞こえてきたのだけれど」
そう言うと、西暦と月日を上げて「間違いないかしら」と首を傾げた。
「あ、えぇ、そうです」
店内の客も巻き込んで盛大にお祝いしてもらったから誕生日が近いのは知られていたと思うけれど、そんな詳しい日付までは言ってないと思うけど、と訝りながらも浬桜は正確に言い当てられて戸惑う。
「あなた、いまお悩みがあるわよね」
ぐ、と顔を近づけられて浬桜は気圧されるように後ずさった。
「な、悩み?」
「えぇ」
大きな黒い瞳に吸い込まれそうになる。無意識に浬桜は「まぁ、それなりに」と答えてしまう。
「あなた、南へ行ったほうがいいわ」
意外な返答に浬桜は「へ?」と変な声が出た。
「間違えないでね、必ずあなたの家から真南。絶対よ」
そう言うと、サロンであつらえたような艶めく小さな爪を寄せ、左手に影絵のキツネを作った。そこから親指をスライドさせ、中指の第二関節のところで一呼吸した後、決まりごとのように親指が三本の指の関節をリズミカルに塗りつぶすように移動した。そして最後、人差し指の第一関節で止まる。
「そう、今日、これから行ったほうがいいわ。大切なことだからもう一度言うけど、南よ、南。あなたの家から真南」
美しい大きな黒目をさらに大きく瞬かせ、艶めいたブルーの指先を鏡に向かって力強く振り下ろした。
「あの」
「なぁに。聞きたいことがあるならどうぞ」
「そっちは、北、では?」
鏡の中でパチリと合った大きな黒目の縁が桃色に染まり「きゃあ!」という悲鳴と共に指先がさっと引っ込められる。
「わたしったら。筋金入りの方向音痴ですの」
ちろりと舌を出し、ほっそりした白い小首をかしげて微笑む。そのような仕草が似合う人を、浬桜は初めて目にした。
「では真南ね。ごきげんよう」
ごきげん、よう?浬桜は、そのような挨拶をされたのも初めてだ。
「なに、あれ」
呆然としながら見送り、メッセージを確認するのも忘れてそのまま席に戻る。隣の席にはもう彼女の姿はない。
「そろそろ出ようか」
3人とはこの後映画を見にいくか、カラオケにでも行こうかと話していた。正直、どちらにもあまり気乗りしなかった浬桜だったが。
「ねぇ、この後さ、海に行かない?」
別に自分はあの怪しげな女の言うことを真に受けたわけではない。ただあまりにも連呼されたせいで浬桜の頭の中には「真南」と言う言葉がぐるぐると渦巻いていた。
太平洋側の広く海に面している場所に住んでいると、南と言えば海だ。海しかないと言ってもいい。
「海?珍しいね。でも主役のお望みならばぜひ」
車を出してくれた圭都がにっこり微笑む。
よく分からないけれど、浬桜は少しだけ気持ちが軽くなっているのを感じる。
たまたま隣になった席の、意味不明の言葉に従っている自分がとんでもなく滑稽であり愉快だ、と感じていた。
EP.2へ続く