衝突の根本


おはようございますー。



内容は若干不穏なんですが、今日は書きたかった、というか書いておくべきかな、と常々思っていた事を書きます。

前の記事で、私は感情論を理屈で捉えようとしている、と書いたのですが
その理由、明らかになった事を書いていきたいと思います。


これを読んだ人が、自分の今ある感情に納得してより良い未来を歩めたらいいな、という気持ちと、これをこの場所に残す事によって、今まで受けてきた恩を少しでも返せたらって思います。


まず、理由としては、人間を人間たらしめているのは感情であるが、いわゆる理性(もっと言うと論理的思考)でそれをコントロールしてこそ、人間であるのだ、という思想を持っているからで
す。

重点的に置いてたのは感情で、なぜかというと、衝突の根源であり最も危ないと思うから、戦争が起こるのもそれが起因になると考えていたから(特に悪意)、そして行動考えの起点にもなるのが自分の感情と思っていたのが動機になりますかね。


今はその考えが少し変わってきて、行動考えの起点が自分の感情だけでなくて、他者の感情だったり行動、考えもあると思っています。(それでも、それを受け取った時の自分の感情が起点という認識も持てそうな気がしますが)


私は今アラサーなのですが、ここまでの人生の大半はその感情の理解に費やした、という自負があります。こっそりと、時には堂々と、そしてコツコツやり続けてきました。


で、どのようにやったかと言うと、まず、善意で行った行為は、実際どれだけの人の為になるのか(喜んでくれるのか)を確認していきました。

自分的に壁だったのは、正しい行いをしていなかった時に、上手く指摘するのが難しい、というところでした。勿論善意で、自分的には相手を思っての指摘なのですが、相手がそれを受け取った時に思われていない、と強く感じたり、通じていない場合は、そんな事言うなんてありえない、と難色を示す場合もあるわけです。例え善意だったとしても。


意識的に善意だけに気持ちを偏らせる生活を続けていたので(今思うと、子供時代にその環境を作り続けてくれた周りの人には感謝しかない)、"心から正直に良い事をしている"実感は自分の活動を支える原動力にもなっていました。



ただ、善意だけでは私の場合は限界がありました。その壁に対する疑問が解消されなかったのも大きかったですし、何より結局独りよがりになってしまうのです。善意だけでは。

今でも鮮明に覚えているのですが、高校2年の夏の頃、コミュニケーションの仕方を意図的にそれまでのやり方から変えた事がありました。自分では不本意だったので苦しかったのですが、周りが喜ぶからいいのかな、と思う半面、こんな表面的な言葉の何が良くてそんなに喜んでるんだろう、と思う時もありました。

もちろん、表面的な言葉を悪意を持った上で使っていました。具体的には、媚び売りに近いなと思ってた表現を嫌々ながら使い始めた、という感じですね。その時に、抑えていた悪意が頭角をいきなり現した、感じだったので正直自分のその感情についていけない瞬間もありました。


でも、独りよがりにならないために必要だったピースであった、とその時に確信に変わりました。周りの人が喜ぶ機会が増えた事と、理解し得なかった感情を理解した上で、壁だった疑問が解消された事があったからです。衝突の原因は悪意である、と考えていた思い込みが一旦覆ったのが大きな経験でした。

そこで、私は善意と同じように、心持ちを意識的に悪意に極端に寄せていく、という事をしました。実際悪い心持ちなので、自然体で謙虚な態度を取りやすかったのですが(私なんて…というやつですね)希死念慮は常にまとわりつくし、善意のみで生きていた時とはまた違う生きづらさがありました。

実感として強かったのは、悪意における希死念慮は、善意が通じなくて感じる死にたい、と思う感情の比ではなかったことです。なにせ自分は良い事をしていないという意識が強いので、より確信的に「自分は死ぬべき」という意識に近くなるので辛さは善意の比ではない。

ただ、やっぱり自分を責める意識が強いので責任感が強くなります。ここは結構周りからもそう見られるので、良い部分ではあるのですが、エスカレートするとますます希死念慮が強くなってしまう、自分1人を責め続けてしまう状態にはなりますね。


そして、これは振り返って気づいたことなんですが、正しさと悪意は混在でき、それを表面化させた時、表立っての衝突の一因になる事が多いように思えました。自分はこのやり方で間違ってはいないという思いから、物事や言語に移す事ですね。ここで言う"正しさ"は"正義・正しい事"とは別の意味で使ってます。悪い事でも、心の持ちようが良くなくても、ある物事に対して自分が、周りの人が正しいと思う、思っている前提で動くことができる、というのを混在できる、という事を言いたかったです。


ここから本題というか、1番個人的に大事というか、ちゃんと一人一人が気づいたらそれぞれがきっと生きやすくなるんだろうな、と思う気づきがあったので、それを共有します。


善意は無視しやすいが、悪意は無視できない、という人間の性質です。


詳しく説明すると、ある善意に共感すると盲信のきっかけになる、少しズレのある善意を持っていると疑問が湧く、意図があった善意を持っている場合のみ、本来の意味でその善意を捉えることができます。また、悪意によっては善意の利用・攻撃・無視などが瞬間的にはたやすく行う事ができます。

これが善意が注目を浴びにくく、また共感されにくい要因です。どうして自分はこんなに心から良い気持ちで働きかけてるのに、反応が少ないのだろう、きちんと周りに届いている実感がない、と思う人は、この仕組みを知っておいてほしいです。


対して悪意がなぜ無視できないのか。まず、純粋な善意によっては、悪意は見逃してはいけない感情・見逃せない感情、なのがあります。普通に悪い事してたらやめてほしいと、反射的に思うのと一緒ですね。

そして善意と同じように、悪意における共感はいきすぎると盲信になりますが、あまり強くないものでも、母数が多いと連帯感を生み出します。ここが悪意の分かりにくさの原因でもあり、いわゆるいじめの発生メカニズムであるのではないか、と考えています。

また、悪意同士の衝突もあります。これは意図のズレによります。善意によっては疑問が湧くと記述しましたが、悪意においても同様です。(なんとなく湧かないパターンがあるような気がする方は、これについては追記する予定なのでそちらを見て下さい)大きくズレていればいる程、激しい衝突が発生します。

ですので実は、善意と同じように、悪意も意図が同じ場合のみ、本来の意味での悪意を捉えることができます。

ですが、ここで注目してほしいのは、悪意は先ほど述べた善意の利用・攻撃・無視の中の無視がたやすくできる事、です。悪意によっては"どうでも良いから"など、割と簡易的な理由で"無視"という行為を行うことができますが、善意では一度さっき述べたとっさに"見逃してはいけない"というバイアスが誰しもかかるので、簡易的に無視する事ができません。

また、善意というのは、発信者の意識的には良い行いであるので、悪意に対する攻撃・利用をしようとしたところで、できない事が大半です。悪意に対する攻撃・利用もまた悪意でしかできないのです。

(ですが、善意によっては意図的でなく悪意への攻撃・利用を行なっている状況が生まれる場合があります。これは、意図的ではないのでじわじわとしたものになったり、あるいは悪意を持つ側が過敏に反応したりするパターンがあります。この場合必ず起こり得るのが、善意を持つ側と悪意を持つ側の意図のズレですね。)


なので、必然的に注目を浴びやすい意識、というのが善意ではなく、悪意であるという事が分かるかと思います。

意識が言語され、万バズなどが度々起こるSNSの大半は、簡易的に反応ができるという点からも可視化された悪意の巣窟である、つまり注目を浴びていれば浴びているほど、共感やインプレッション数が多いほど、はっきり言うと発信者が悪意を強く持っている可能性が高いんじゃないのかな、という風に今は思っています。分かりづらいものもあるけど、どんなに良いようなものでも。


じゃあもう世の中、悪意でしか注目浴びれないんじゃん!それしか蔓延ってないじゃん!って思わないで欲しいというのがこの記事の意図なので、さらに発展的な事をここから書いていきます。



前述した通り、悪意も善意も意図が合っていれば、その気持ちを捉える事ができる、のです。

それさえできる状況にしてしまえば、相互理解、コミュニケーションによる意思疎通が平和にできる、と私は考えています。


だから、誰にでも分かりやすい表現を突き詰めていく事が、衝突を回避するための指針であるように思います。共感ではなく、頭で反射的にその意図が相手が理解できるよう努める事が、理解して欲しい相手に最も取るべき態度だと言えます。


また、それよりも大事だと思っているのが自分自身にある加害意識の解像度を上げる事です。間違っても加害意識を強く持つ、ではないです。解像度を上げる事です。


被害意識を自分が持つ事で加害者を必然的に生んでしまう事への意識が、昨今は薄いように感じています。なのでこれを強く言いたかったです。

もちろん、実際に実害として被害を受けている場合は被害を受けている事を主張すべきなのですが、その前に、果たして自分は加害者では無かったか、今加害している状況か、を個々人が改めて認識し直す事が大事だと考えます。

そのために必要なのが、自分の悪意の解像度を上げる事です。さっきの加害意識と同じように、悪意を強く持つ事ではないです。そうしてしまうと、単なる加害にしかつながらないからです。そして、自分の意識として善意よりも悪意、被害意識よりも加害意識を持っていると相手がどういう理由で加害されたと思いそうかを理解できます。そこで、未然に加害を防ぐ事ができるので、自分が相手を害さない為にこそ悪意や加害意識が必要なのだと捉えてもらえればと思います。


そして善意における加害というのを考えるのにも、悪意の自認が必要不可欠です。なぜなら先程括弧書きで述べた意識的ではない加害が発生するからです。なぜそれで傷つくのか、それが嫌なのか、は自分の持ち得る悪意の想像力でしか分からないので、善意だけでは相手の傷や忌避感の想像ができません。


なので、善意と悪意の両サイドの加害を防ぐにあたって必要なのが、自分の悪意の解像度を上げる事、であると言えます。



そして、衝突について。
衝突の根本になっている感情については、前述した通りなのですが、最後に衝突の起こり得る感情のパターンの可能性をまとめます。


まず、正しさと悪意が混在した時。前述した通り、悪意によって自分の正しさを認めてもらいたく表面化させた際に、意図がズレた(別の正しさをもっている)、もしくは反した(別の悪意、または善意をもっている)人間と衝突が起きやすいです。


そして意図がズレた場合。例えばクレーマーなんかは、クレームつけてる相手を下に見てるというより、できない事が悪意によってやっているとみなしていて、誤認してるとかの場合があったりとか。この場合、クレーマーとその受け手に意図の差がありますね。こういう時にも衝突が発生します。


盲信・連帯感と攻撃・利用・無視による衝突も主にこの2つの派生です。




人類が戦争の危機に陥りそうな時に、できるだけ多くの人に自分の考えを共有したい、(防ぐに値するかはそうなってみないと分からないけど)という思いが原動力で今この文を書いていますが、例えば先生や生徒などどの立場からでも学校のいじめを切り抜ける方法でもあったり、職場でも過ごしやすくなる処世術でもあると思うので、閲覧した方の役に立てれば幸いです。

今後の人生では、理性もパターン化して寄せられるか、それをした結果の確認、もやってみたいです。感情でやってもなんとか生きられてるので、理性はどうなるか楽しみです。

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