あの頃はまったダイハード3について

つたえたかったこと

1995ダイハード3
もともと、この映画が大好きで、人生で何度見たかわからないくらい頻繁に鑑賞している。
ブルースウィリス演じるジョンマクレーンが悪者をやっつける映画…、今までは、テンポの速さや表面的なストーリーの面白さ、演者のやり取りに惹かれていたのだが
作品が好きすぎてネットでブログをあさっていたら戸田山和久先生の『教養の書』を参考文献にしている記事に出会った
そこから本を買い、読んでみた。

ニューヨークの5番街でデパートが爆破されて、サイモンと名乗るテロリストから、ニューヨーク市警に予告電話がかかってくる。マクレーン刑事があることをしないと、
また爆破事件を起こす、っていうもの。
二日酔いで体調最悪だけどしょうがなくハーレム(黒人街)に向かったマクレーン
ハーレムのど真ん中で、「I hate niggers」と書いて立っていろというゲーム。

自分の店からたまたまマクレーンを見かけたアフリカ系の男ズース。(サミュエルLジャクソン)

マクレーンへ警告しに行くもチンピラたちに見つかってしまい襲われそうになるマクレーン。
マクレーンの持っていた銃を使ってピンチを乗り越え、マクレーンとズースはタクシーに乗って脱出した。

このあと警察に帰ってくると、犯人サイモンから電話がかかってくる。
黒人を出せ、と言われたのでズースが電話に出ると、
サイモン「黒いサマリア人だな?」
ズース「黒で悪いか」というと電話が切れ、終話。

前提1
サマリア人=ここでは異教徒、の意で描かれている。
マクレーンの運転する暴走するタクシーに同乗しズースが怖がるシーンで、カトリックではどうやるんだっけ?と、キリスト教での祈り方を知らないズースがでてくる⇒キリスト教ではないということ

前提2
ズースが出てくる最初のシーン、自分の店に盗品を売りに来た子供に対して説教をするシーン。
チンピラの手先になるんじゃない、自分が守るべきものを定義して、自分たちを守るんだ。(黒人を助け、白人は助けない)

ここで出てくる、有名すぎる善きサマリア人のたとえ話とは。
ルカによる福音書第10章に記載のある話…。

正統派のユダヤ教に批判的なイエスが、「隣人を愛せ」と説いて回っている
ユダヤ教の律法学者は、自分の義を守ろうと(自分はちゃんと同胞を愛しているユダヤ人のエリートであると再確認するため)、「隣人とはだれのことですか?」と尋ねた
でもそこでイエスはその質問には答えないで、たとえ話をした

ある人(ここではユダヤ人)が半殺しで道端に放置されてしまった
祭司とレビ人が(ユダヤ人のエリート)がその人を見たが、そのまま通り過ぎた。穢れがあるものに触れてはならない、という教えのもと、悪いことをしたわけではない
次に通りかかったサマリア人(ユダヤ人とは今でも対立する異教徒、敵)は瀕死のユダヤ人を介抱し金銭まで与えた

この3人のうち、だれがある人の隣人になったと思うか?
とイエスは律法学者に聞き返した

律法学者は「その慈悲深い行いをした人です」と答え、イエスは「そのようにあなたもしなさい」と言った

「隣人と非隣人をあらかじめ区別しておいて、助ける人とそうでない人を選別する・どこからが助けるべき人なのですか?」
という前提そのものをよくないとしたイエス。

隣人は最初から決まっているものではなくて、助けることによって一歩踏み出すことによって隣人になる。
そして、「隣人になる」ことを求められているのは他の誰かではなく自分である

イエスがいうところの隣人愛とは何なのか、ということについて

土井健司先生の『キリスト教を問い直す』にはこうある。
隣人愛とは
主体的で自由な行為である⇒自分ドリブン、自分がどうしたいか
見ることから始まる⇒直に見ることで心が動かされる、行動に繋がる
境界線を越えていく行為である、ということは、=いろんな属性・役割を超えて、踏み出す非日常の一歩。その行動にこそ価値がある

ダイハード3の隠されたテーマの一つ
ズースのたまたまの行動は、意図せず異教徒であったマクレーンとの境界線を越えて、隣人になった。
もともと隣人ではなかったはずなのに、助けることによって隣人になった。白人を助けるつもりはなかったズースが、助けたことによって隣人になった

★⇒自分のいるところから踏み出して普通ではないことをする、自分を差し置いて誰のことも愛しなさいなんて、噓くさい。
隣人になりに行く、みたいな博愛っぽいことはとても凡人には無理な気がしている⇒そもそもできなくていいし、するべきでもないのかもしれない。
これは自然にできるものではなくて、学ばないと、そして自分から行動しないと始まらないことなんだろうなと思った。

境界線を越えることはそもそも難しいことだし、自分の偏見や思い込みはなくならないけど、学ぶことで、~~するべき、から自分で~~になるんだという
自発的な行為が増えていくことによって主体的に生きることの実践に繋がるんじゃないかな。

『キリスト教を問い直す』で土屋先生はこういう。
ほんの少しだったとしても、、決められたレシピから誰かの何かを思って一つ加える動作でも、境界線を越えることになる

今回のダイハードについて思いめぐらせたことについて、一通り終わってみると作品のことが一層好きになったし、作者と対話した気にさえなった。
どんな楽しみ方をするかは人それぞれでいいと思うけど、映画や小説は、セリフ一つ一つが意図して作られた人工物であり、そこに込められた意味を
知ることが私にとって非常に幸福感を感じる出来事なのだと実感した。

そこに至るまでには、時間もかかるけど、知らないことを知ることは、やっぱり幸せに近づける気がしている
上記にも書いた、隣人愛は学ばないとわからない。自然とできるようで、学ぶ姿勢が望まれるものは、幸福もそれに入るのかもしれない

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