【5分で読める#06】 Roasted green tea
1 郁
どこからか土っぽい、それでいて金属質な香りがする。
原稿用紙を前にしてその香りを嗅ぐと、おれのペンはすぐに濡れた。嗅覚が刺激されると、脳が活性化するのだろうか。次から次へと言葉が溢れてきて、それを今に繋ぎ止めるのが間に合わない。
幼少の頃から本を読むのが好きだった。空いた時間があればすぐに本を開いては、その世界へと没入していった。周囲の大人は、いつも本を読んでいる子どもをこぞって褒めた。おれは別に褒められたくて本を読んでいたわけではないが、好きなことをしていて褒められるのだから悪い気はしなかった。
まさに本に浸かる生活を過ごす中で、本を読むことからそれを書くことへと、おれの欲求が拡大していくのにそう時間はかからなかった。中学生の頃には本の他に紙とペンを常に持ち歩くようになり、頭に何かが浮かべばすぐにでも書きはじめていた。
執筆のアイディアはおれの嗅覚が教えてくれた。文学の種は独特の香気を発しているのだ。その香気に気付きさえすれば、後は手を動かすだけだ。何を書けばいいかは脳が勝手に判断してくれる。
こうして気付けば、おれは読むこと以上に書くことが好きになっていた。そんなおれにとって、小説家は天職以外の何物でもない、はずだった。
2 澁
小説家になって数年が経ったある日。
それはまったく突然だった。
おれはその日を境に、何も書けなくなった。
朝起きるとおれの周囲のすべてのものは香りを失い、なんとも味気ないものになっていた。昨日までは考えなくても書けたようなことが、いくら考えてたって少しも書けなくなっていた。
しばらくすれば書けるようになるだろうと、はじめのうちは高を括っていた。しかし、それが1週間、1ヶ月と続くとおれは気が気でなくなった。もちろん無理やり書こうとした時だってある。だが、そうして生み出されたモノはなんの面白みもない、ただの文字の羅列でしかなかった。
これはスランプだ。スランプはいつか抜け出せるはずだ、そう自分に言い聞かせたが、出口のわからない真っ暗闇のトンネルに置き去りにされた恐怖は想像を絶するものだった。
ゴールがどこにあるかわからない状態で走り続けることはできず、あるいはゴールがあると信じられない状態ではその場を動くことすらできなかった。
こうしておれは、世界を完全に失ったのだった。
3 酸
書けなくなって半年ほどたった頃、ふと昔の恩師に会いたくなった。その人は、おれの小説家になるという夢を常に応援してくれていた人だった。
なぜ会いたくなったのか理由は分からない。恩師に会うことが、おれのこの問題を解決してくれるとも思えない。ただ会いたかった。
恩師はおれの突然の連絡にそれなら今すぐにでも来なさいと、そう言ってくれた。
郊外の田園地帯の一軒家。呼び鈴を鳴らすおれは緊張していたが、出迎えてくれた恩師の笑顔は柔和だった。白髪が増えてだいぶ歳をとったようだ。しかし、紛れもなくその人はおれの会いたかった人だった。
子綺麗な部屋で、取り止めのない会話をした。季節のこと、近所の野良猫のこと、昨日食べた蜜柑のこと、そしてうまく書けなくなったこと。
恩師はすべての話にきちんと耳を傾けてくれ、時に笑い、時に共に思案してくれた。そうして用意してくれたコーヒーがなくなってしばらくした頃、もう一杯用意しようと、恩師はそう言って席を立った。
しばらくしておれの前に差し出されたのは、一杯のほうじ茶だった。
香ばしい薫香が鼻腔を刺激する。赤みがかかった透き通る褐色の液体からは白く輝く湯気が軽やかに立ち昇っている。熱いと分かっているそれを口に運ぶと、やはり熱い。熱は喉を通り、胃へと落ちていく。
鼻に強く香りが抜け、舌に柔らかな渋みを感じ、次に微かな酸味、そして最後に不思議な甘みが口の中に広がる。
おれは絶句した。
ほうじ茶にこんな複雑な味を感じたのは、はじめてだったからだ。別に今までにこれを飲んでこなかったのではない。
単におれはその味に、気付いていなかったのだ。
4 甘
あれからさらに半年が経った。
今も昔のようには書けない。
ただ、もうそれでいい。
書くことは容易ではない。そんな簡単ことをおれはようやく理解したのだ。むしろ、この世の中に易しいことなことなど存在し得るのだろうか。容易に見えているだけ、あるいはその複雑さに気付いていないだけではなかろうか。
そして苦難を知ったとて、それは忌むべきことではないはずだ。咀嚼し、受容し、すべてを己の血肉とすれば良い。
物語を紡ぎ出すことがどれほど苦しかろうが、おれは甘んじでそれを受け入れよう。おれが生み出した物語がどれほど甲斐ないものであろうとも、おれだけはそれを愛そう。
今ならば、きっとそれができると思える。
書くことの味わいは、書くことの悦びは、そこにこそあるのだから。
ーーおわりーー