【5分で読める#05】 Ranunculus〜You are charming〜
1 独白
夫に何の不満があるわけでは無い。
たしかに仕事人間ではあったが、世の男性の多くがそうであったし、夫はその中でもやるべき事さえ終われば真っ直ぐに帰ってきてくれた。家事も育児もしてくれた方だと思う。休日に家族を旅行へ連れて行ってくれたこともあった。子どもたちだって、小さい頃はそれを楽しみにしていた。
世間からすれば彼は父として平均点以上だろう。いや、子どもたちにとっては理想の父親だったかもしれない。
でも、わたしが今、夫に感じているこの感覚は何なのだろう。虚無感、寂寥感、孤独感、どれとも似ているようだし、どれとも違う気がする。いくら考えても答えは出ない。気付けば思考はくるくると空回りをし、そしてわたしは陰鬱の淵へと引き摺り込まれていく。
わたしが小さな違和感を感じ始めたのは子育てがひと段落し、上の子が独り立ちをし始めた頃だったか。数年前に下の子も手を離れ、夫と2人きりの生活が始まるようになると、その違和感は瞬く間に大きさを増した。子育て中にあれほど欲していたはずの自分だけの時間がこんなにもあるのに、新婚生活中にあれほど楽しかったはずの夫との時間がこんなにもあるのに、今となってはどちらも色を失っているかのように感じる。ふとした時に、わたしの中の何かがわたしに問いかける。はじめは小さく、そして徐々に大きく、わたしの心に囁いてくる。
このままでいいのか?
これがお前のしあわせなのか?
こんなことを思うのはわがままなのだろうか。わたしは一体どうしたらいいのだろう。
もちろん誰も教えてくれはしない。わたしに残された道は、今がしあわせだと…そう思い込むことだけなのだろうか。
2 端緒
冬至を過ぎた寒さの厳しい日のこと、わたしが街での用事を終え、喫茶店で小休憩した後に帰途につこうとした時だった。
「あら。お久しぶりね」
店を出たところで、誰かに声を掛けられた。ふと顔をあげると、そこには見知った女性が笑顔で立っている。夫の会社の社長夫人だった。彼女とは今でこそ疎遠であるものの、子どもが小さかった頃は家族ぐるみの付き合いがあった。こうして会うのはもう10数年ぶりではないだろうか。わたしも笑顔で挨拶をする。
久しぶりの再会を互いに懐かしみ、他愛のない会話をいくつかしたはずだが内容はよく覚えていない。話をしながらも、わたしは彼女から発せられる何かに心を奪われてしまっていたからだ。
彼女はデニム・オン・デニムスタイルで、無造作に巻かれたモノクロギンガムのストールの間からは、真紅のインナーがさりげなく見える。足元の黒のブーツはよく手入れされていて、コーディネート全体を引き締めていた。シンプルの中にエレガンスを感じる。昔もそうだったが、彼女は相変わらず美しかった。あれから確かに年をとったはずなのに、気品ある凛とした立ち姿に、わたしは見惚れた。
その後もいくつか話をしてから、別れ際に彼女にこう誘われた。
「あの…もし良かったら今度うちにいらっしゃらない?」
誘ってもらえたことが純粋にうれしかった。断る理由も特になく、わたしはその誘いを受けることにした。
久しぶりの再会からくる高揚感だろうか。彼女と別れた後も身体が少し火照っている。キンと冷えた真冬の空気が頬に心地よかった。
3 魅力
「いらっしゃい。外は寒かったでしょう?」
エントランスで招待への感謝を述べて、菓子折りを手渡す。家の中はほんのりあたたかく、バニラのような甘やかな香りが嫌味なく漂っていた。オフホワイトのワンピース姿で出迎えてくれた彼女の少し開いた胸元では、ゴールドのベネチアンチェーンがしなやかに光を反射させている。
わたしは案内されるままにリビングへと入った。
「腰掛けて待っていてね。紅茶でいいかしら?」
リビングは昔と変わらず、きちんと整理されている。吹き抜けの高窓から差し込む冬の日差しは、部屋の白さを際立たせていた。
わたしはソファに腰掛け、部屋をぐるりと見渡す。窓際にはフラワースタンドがあり、その上の瑠璃色の花器に花が生けてあるのが見える。花に疎いため種類は分からないが、何やら緑色の大きな葉や白く細かい花が生けられていて、その中央には真紅の薄紙を幾重にも重ねたような大輪の花がすっくと立ち上がっていた。
見事な花だ。この花を中心にすべての花々が花器と一体化し、そしてさらには部屋と調和している。
「それ、素敵でしょう?近くの生花店の娘さんが生けてくれたのよ」
ダージリンティーをわたしの前に差し出しつつ、彼女は笑顔でそう言った。もう一度生け花全体を眺めてみると、やはり中心の紅い花に目が惹き寄せられる。
「この真ん中の紅い花はラナンキュラスというのよ。魅力的な花よね。あまりにも魅力的で嫉妬してしまうほど…」
花を見る彼女の顔は、なぜか哀しみを湛えていた。
4 光輝
「わたしね、主人と離婚しようと思うの」
そんな言葉が彼女の口から聞かれた時は、少なからず驚いた。驚いたが、心のどこかでひょっとしたらそうかも知れないと感じていた自分もいた。
好きな人ができたのよ。彼女は悪戯な笑みを浮かべて、そう言った。こんな時にどういう顔をしたらいいのか分からなかったが、話を聞くほどに彼女の決意の固さと、離婚はもう決定事項なのだということが伝わってきた。
「よく女って花に例えられるじゃない?たしかに共通点は多くあると思うのよ。でもね、もしひとつ違うところを挙げるのなら、それは美しさの性質だと思うの。花は枯れたらそれでおしまい。でも女はね、老いてからが美しいのよ」
そう断言する彼女は確かに美しかった。若さとはまた違う、これまでの累々たる人生の時間を輝きに変えて放っているかのようで、わたしは彼女の眩しさにただ目が眩んだ。
今までの自分の人生が、頭の中でフラッシュバックしていく。様々な場面が激流のように押し寄せ、わたし以外のすべてを根こそぎ押し流す。激流の去った後に残されたのはわたしだけだ。
こんな生き方、
わたしにはきっとできない。
そう思ったらいつのまにか涙が溢れていた。何の涙なのか自分でもよく分からない。でも、自分の中の何かがこぼれ出し、止めることができなかった。
彼女がそっと声を掛けてくれる。
「この前に久しぶりに会った時も思ったの。今のあなた、少し迷いを抱えている感じがするわ。でもね、その迷いがあるからこそ、今のあなたは魅力に満ちている。昔よりもずっとね。無理をしなくていいの。あなたにはあなたの美しさがあるから」
─── わたしの美しさ、それは一体どんな輝きをもつのだろう。もう輝ける日は過ぎ去ってしまったのだと、いつの間にかわたしはわたしの人生を諦めてしまっていなかったか。輝きを失ったのは環境のせいではないかと、わたしはわたし以外に理由を求めていなかったか。
涙は出るに任せておいた。化粧が落ちてひどい顔になっているかも知れない。でも、わたしはそれらすべてをひっくるめて、わたしなのだ。
深く発酵されたダージリンのフルーティな薫香には、上品な渋みがよく似合う。
ラナンキュラスはただ凛として立ち続け、真紅の光輝を放っていた。
ーーおわりーー