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【短編小説】 a fragrant olive

1 マチ子


「あれ?マチ子さん、最近ジョギングでもしてるんですか?」

ある日の昼休み中、ポチローが回鍋肉ホイコーローを食べながら聞いてきた。

「え、待って。なんでそれをポチローが知ってんのよ」
「なんか、マチ子さん最近スッキリした顔してるなぁって。だから運動でもしてるのかな?って思ったんです」

 確かに毎朝ジョギングはしているし、ほんの少しだけ痩せたけど、たったそれだけで分かるものだろうか。というか、運動していると感づいたとして、なぜ数ある運動の中でジョギングだとピタリと言い当てらるのか。
 もちろん聞いてみたけど、彼は回鍋肉に夢中で、わたしの質問を華麗に無視した。うまいうまい言いながら食べている。まったく……まぁいいか。

 ちなみに、ポチローはもちろんあだ名だ。わたしの職場の後輩で、本名は犬山一太郎という。
 彼はなにかと犬っぽい。とりあえず苗字に犬の字が入っているし、名前の一の字は英語でワンという。さらには、ラブラドールレトリーバーのような整った顔立ちで、性格はそこからイメージされるとおり従順でおとなしい。そしてなによりも、彼は信じられないくらいに鼻が利いた。さっきもそうだが、ポチローはかすかな兆候も逃さずキャッチしている節があって、侮れないなぁと少なくともわたしはそう思っている。

「マチ子さん!早く食べないと昼休み終わっちゃいますよ!」

 ポチローに言われて時計を見ると、休み時間が残り10分をきっている。わぉ。ヤバい。わたしも慌てて回鍋肉をかき込む。

 それにしても美味しい。ここ鳥澤飯店の料理はなんでも美味しいが、やはり回鍋肉は別格だ。程よい厚さにカットされた豚バラ肉に、オイスター風味の甘辛だれが絶妙に絡みつく。ニンジン、タマネギ、キャベツがシャキシャキとしながらもそれぞれが違う歯触りで、噛んでいて楽しい。オフィスからは少し歩くのだけれど、昼休みになるとついついこの味が食べたくて来てしまう。
 実は一昨日もここに来た。それにもかかわらず、今日の昼にポチローに誘われて二つ返事でまた来てしまった。道すがら聞いた話では、彼はほぼ毎日ここに来ているらしい。まぁ分からないでもない。それだけ飽きないし、美味しいのだ。

 鳥澤飯店は夫婦経営だ。鳥澤のおばちゃんはわたしのお母さんよりちょっと年上くらいで、モジャモジャの鳥の巣頭に恰幅のいい体をしている。チャキチャキの江戸っ子気質で、ズバズバとものを言うけど人情味があってわたしは大好きだ。
 それに対して、鳥澤のおじちゃんはやたら無口で愛想がない。いつも厨房で料理を作っているけど、おじちゃんが喋っているところをわたしは見たことがない。黙々とおばちゃんが取る注文をこなすのみだ。背は高いが体の線は本当に細く、ちゃんと栄養が取れているか心配になる。それなのに今日も特大の中華鍋を軽々と、しかも延々と振っているのだからすごいとしか言いようがない。

「ごちそうさま!おばちゃんお会計!ポチロー、行くよ!」

 店を出る時におばちゃんの明るい声が聞こえる。昼休みが終わるまであと5分だ。小走りで帰れば多分間に合う。待ってくださいよーという情けない声とともにポチローも店を出てきた。

 ─── 今から話すのは、そんなポチローとわたしが経験した、ほんの少し不思議なお話だ。少しだけ長くなるかもしれないけど、のんびりと聞いて欲しい。


2 猿川


「あれ?猿川課長、禁煙したんですか?」

 昼休憩から帰ってきた犬山が、おれの斜向かいにある自分の席に着くなりそう言ってきた。
 そんなにおれは今までタバコ臭かったか?そう言ってやりたい気持ちもあるが、本人に悪気はないようだ。いつものニコニコした顔で今度のプレゼン資料の確認を依頼してくる。まぁな、とだけ答えて資料に軽く目を通す。

「あぁ…犬山、ここなんだけどな、もう少しお金をかけたプランを提案したほうが良くないか?マチ子君にもそう言っておいたと思うんだが…」

ちらりとマチ子の方を見やるが、ちょうど他との会話中で耳に入っていないようだ。すると、犬山が一丁前に反論し出す。

「あの…マチ子さんにはそう言われたんですけど、これ発注元は市ですよね。だったら広告にお金かけるよりもっとイベントの質にお金を回した方が税金の使い道としていいと思うんですよ。だから…」
「あのな、犬山。ウチは広告代理店なの。でな、ウチが広告以外のことまで気にする必要は無いんだわ。要求された条件の中で最高の広告を提供する、これだけ考えてくれればいい。すまんな、もう一度考えてみてくれ」

 おれは犬山の反論を途中で遮り、プレゼン資料を突き返す。一瞬不服そうな顔を見せたが、次の瞬間には「はい、分かりました」と素直に言ってくる。奴のそういうところは好感が持てるが、いかんせん鼻が利きすぎる。知らぬが仏、そんな言葉を教えてやりたくなる。
 世の中は様々なしがらみで溢れているのだ。予算額を小さく設定してプレゼンするのは当たり前だが、それはあくまでコンペで競合他社に勝ちたい時⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎だけだ。勝てる時⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎はそんなことをする必要はまったくない。そう、もうこの広告契約はウチが取ると決まっているのだ。だからこそ、マチ子・犬山コンビにこの仕事を任せていると言ってもいい。

 市をはじめとする官の発注には適正価格というものが存在する。この価格は官側にとってはある意味絶対的なもので、企業の提示した額が適正価格より高過ぎるようだと国損であるし、逆に安すぎても品質や信用が担保できないと判断される。つまり、企業側にとってはこの適正価格にいかに近づけつつ、自社の利益も生むような提案ができるかが鍵になる。高すぎてもダメ、安すぎてもダメなのだ。
 そして怖いのは、高い分ならまだしも、一度でも低価格帯で引き受けてしまうと、それが前例となり、以降はそれ以上の価格がつかなくなってしまうことがある。広告業界はただでさえ薄利なのだ。自ら首を絞める必要はない。
 今回の案件は決められた金額で適当なプレゼンをしておけばいい。契約さえ決まれば、内容なんてどうせ後でいくらでも修正できる。お前らに任せているのは、そういう仕事なのだ。

 もちろん、そんなことは言えないが。


3 マチ子


「マチ子さーん…やっぱここの金額、増やさなきゃダメですかねぇ?」

ラブラドール顔のポチローが目を潤ませながらすり寄ってくる。いやいや、そんな目でこっちを見るな。

「あんたさ、なんでそこにそんなこだわってるの?別にいいじゃない、課長がそうしろって言うんだからさ、そうしておけば」
「でも…ぼく、なんか気になるんですよ。だって今回もらうお金は税金ですよ?ここ安くした方がクライアントも喜ぶと思うんだけどなー」

 そう、そういうところだ。わたしもよく分からないけれど、こういう時のポチローの勘は必ず正しい。この前、わたしが社用車のキーをどこかに置き忘れるという凡ミスをした時も、見つけてくれたのはポチローだった。彼は「なんかこっちの方にある気がした」なんて言ってたけど、あの時は本当に助かった。埋め合わせは回鍋肉大盛りだった。

「うーん。わかった!じゃぁさ、ポチロー、こういうのはどう?ここの予算は課長が言ったように大きくあてるとして、他を何とかして削るの。要は、全体としてスリムな提案ができればポチローは満足なんでしょ?」

 さっきまで目を潤ませていたラブラドールが突然イキイキし出した。余計な仕事が増える気がするけど仕方ない。彼が思うようにやらせてやるのもわたしの務めだろうと、ちょっと先輩風を吹かせてみた。
 あーあ。今日は帰りが終電になりそうだ。明日の朝のジョギングはやめておこうかな…そんなことを考えながらポチローと一緒にプランの見直しを始めた。


4 猿川


 まったく。どうしてあのマチ子・犬山コンビは言われたようにやらないのだ。修正案に目を通しながらおれは思案した。
 昨日やり直しを命じて、次の日の朝一で出してきたのはいいが、結局安くまとめられている。たしかに昨日指摘した箇所は増額されているが、問題はそういうことではないのだ。もう金額は決まっているんだと言ってやりたいが、さすがにそれはまずい。談合が疑われれば、当然贈収賄も疑われる。

 適正価格が事前に企業側へ漏らされることは無いが、それはあくまで表面上の話だ。今回ならば、このイベントに関わる市議からそれとなく話が持ちかけられ、適正価格を教えてもらう見返りに、そこで浮いた分の金の何割かを市議に渡す。もちろん競合他社もそれくらいのことは知っているし、お互い様だからこそ今回は黙ってくれている。どうせ落札価格は事前に決まっているのだ。市議にとっても企業にとってもウィンウィンだからこそ、こういう不正は無くならない。
 おれとしてもより多くの優良案件を契約まで漕ぎつけられれば、今後のさらなるキャリアアップも夢ではなくなる。仕方のないことなのだ。綺麗事のみで社会は生きていけない。

「うーん。困ったな。昨日指摘したところを直してくれるだけで良かったんだが……どうしてもこれで行きたいのか?」

 2人とも熱っぽい視線でこちらを見てくる。マチ子・犬山の2人にこの案件を任せたのは失敗だったかも知れない。こういう情熱に燃える人間を説得するのは、これまでの経験上、膨大なエネルギーを必要とする。無理に押さえつけようとしても余計な反発を生むだけだ。仕方ない。奥の手を使うしかなさそうだ。

「分かった。お前らの熱意はわかったが、この件は一回こちらで預からせてくれ。部長とも相談してみようと思う。おれも頑張ってみるが、もし部長の許可が降りなかったら、その時は諦めておれの指示に従ってくれ。いいな?」

 2人とも部長の名が出ては、刀を鞘に収めるしかなさそうだった。部長は人徳のある人だ。部長の命令だと言われれば、うちでは誰しもが納得する。多用はできないが、こういう時には使える手法だ。

 もちろん、部長に相談するつもりなんてない。何度も言うが、これはもう決定事項なのだ。


5 マチ子


 結局、部長の許可は降りなかった。わたしとしては少し意外だったけれど、部長が言うのなら仕方ない。猿川課長も色々と頑張ってくれたみたいだし、しょうがないよ。そう言いながら、今日は仕事終わりの夕方にポチローと回鍋肉を食べに来ていた。

 向かいに座るポチローをふと見ると、回鍋肉がまだ皿に残っているのにも関わらず、箸がめずらしく止まっている。
 顔はじっとこっちを見ていた。

「え?なによ…そんなじっと見ちゃって。気持ち悪い」

 そんなにまじまじと見つめられることなんてしばらくなかったから、ついつい照れ隠しでキツイことを言ってしまった。あ、ちょっと言い過ぎたかな…と思ってもう一度ポチローを見たら、突然彼がこんなことを言い出した。

「マチ子さん。猿川課長は嘘ついてます。間違いないです」
「え、待って。何言ってるの急に…そりゃ自分のプランが通らなくて悔しいかも知れないけどさ、なんかそういうのポチローらしくないじゃ…」
「違うんです。ぼく、分かるんですよ。匂いで分かるんです」

 いやいや、いくら犬っぽくてもさすがにそれは無理があるんじゃないかと思ったが、ポチローの続けた言葉にわたしは驚愕した。

「マチ子さん、今朝はジョギングしてないですよね?これも匂いで分かるんです。マチ子さんはジョギングする時、多分この近くの公園で準備運動か何かして出発してますよね?あの公園には金木犀の木があって、今はちょうど花が咲いている頃だから、あそこに居たってことがマチ子さんからの匂いで分かるんです。昨日は金木犀の香りがマチ子さんからしたけど、今日はしない。だから今日はジョギングはしてないだろうなって分かるんです」

 え…ウソ。そんなことって本当にあるのか?信じられないと思いつつも、ポチローの言うことが完璧に当たっているので恐ろしさすら感じる。

「で、なんで猿川課長が嘘をついてると思うかなんですけど、課長は今禁煙中なんですよ。でも部長は禁煙してません。もし、課長が言うように、本当にこの資料を部長に見せて相談してくれたのなら、この資料からは必ずタバコの臭いがするはずなんです。でも全然しません。というか、この資料は課長の机の引き出しすら出てないと思います」

 え…でも…いやまさか…そんなことあるのだろうか。ちょうど部長も禁煙中でしたとかそういうことは無いだろうか?そんなわたしの考えを見越したようにポチローは続ける。

「ちなみに部長は昨日も今日も喫煙ルームにいるところを見ました。部長も禁煙してるってことは無いです。だから、ぼく…課長を疑いたくはないんですけど…でもやっぱり少し悔しくて。事実をハッキリさせようにも、こんなこと言ったところでマチ子さん以外は信じてくれないだろうし…」

 おいおい。わたしも現在進行形で信じる信じないの境界上にいるのだが。ポチローが差し出した資料を試しにクンクン嗅いでみる。ついでに自分の服の袖も嗅いでみるが、いやまったくわからん。
 突拍子もないとはまさにこういうことを言うのだろう。考えていても結論がでなさそうなので、とりあえずここはポチローの言うことを信じてみることにした。信じてみて、そして思った。

「で、そうだとしてさ、どうするよ?」
「マチ子さん…どうしましょう?」


6 マチ子


 回鍋肉を食べる短い時間ごときでは、この難題の解決策は出ようはずもなかった。部長に直談判に行くことも頭をかすめたが、それをすることは猿川課長がよく思わないだろう。課長がウソをついていたとして、そしてそれをわたしたちが白日の下に晒したとして、その後に仕事がやりにくくなるのは間違いなく自分たちだ。どう考えても得策とは言えない。
 いくら考えてもいい案が浮かばなかった。仕方ないので、この後に居酒屋にでも行って、ちょっと飲みながら2人で考えることにした。異性とサシで飲むなんてもう何年ぶりだろうか。ワクワクはさすがに匂わないはずだと思いつつも、妙にソワソワしている自分がいた。

 居酒屋では、とりあえずビールを注文してなんとなく乾杯する。ポチローの第一声は呆気なかった。

「マチ子さん、やっぱ諦めることにします」
「え、待って。でも…」

 さっきはあんなに信じられなかったのに、今となってはポチローを完全に信じ切って、諦めるだなんてもったいない!だなんて思っているから不思議だ。諦めるのは手っ取り早いが、何かいい方法がきっとあるはずだ。そう言おうとしたが、その何かいい方法の「何か」がまったく思いつかない。

「いいんです、マチ子さん。ぼくの妙なプライドを捨てれば丸く収まる話ですし、そうしましょう。で、実はマチ子さんにはぼくの秘密を知ってしまった人として、別件でひとつ手伝って欲しいことがあるんですよ」

 わたしとしてはまだなにか釈然としないものがあるが、ポチローが言った後半部分がすごく気になる。え?手伝って欲しいこと?なんだろう。そう思ってポチローの顔を見ると、なぜか少し悲しそうな顔をしていた。少しトーンを落として彼が喋りはじめる。

「あの…これは他の誰にも内緒にしておいて欲しいんですけど……鳥澤のおばちゃん、たぶん癌なんです」

 え……?一瞬時が止まったように感じた。今、なんて言った?聞き返したいが、怖くて聞き返せない。
 がん?純粋な怖ろしさだけが目の前に突きつけられている。そんな感じがした。

「ぼく、物心ついた時から父と母は居なくて、小さい頃からずっと祖父母に育てられたんです。で、ぼくが高校生の時に祖母を癌で亡くしたんですけど、あの…その時くらいから、人に会うとなんとなく分かるようになったんです。この人、癌だなって」

 ニュースか何かで、がん探知犬の話を聞いたことがあるが、つまりそういうことだろうか。さっきの話も驚いたけれど、今の話はそれ以上に驚いた。でも今度は全然疑いの気持ちなんて無かった。だってポチローが泣いていたから。

「あんた、それいつ頃から気付いてたの?おばちゃんが癌だって。おばちゃんはそのこと知ってるの?」
「気付いたのは2ヶ月くらい前です。何度か言おうと思ったんですけど、普通信じないですよね。医者でもないただのサラリーマンがあなたは癌です、なんて言っても。だから、せめて病院には行って欲しいと思って、おばちゃんに言ったんですけど、おばちゃんああいう性格だから、店に穴をあけるわけにはいかないって、ピンピンしてるから大丈夫だって、なかなか聞いてもらえないんです」
「じゃぁ…おじちゃんは?鳥澤のおじちゃんに言うのはどう?」
「それも何回か言おうと思ったんですけど、おじちゃんいっつも忙しそうで全然言うタイミングが無いんです。それに、おばちゃんがいる前でおじちゃんに言っても、多分おばちゃんに遮られて聞いてもらえないと思うんです」

 あぁ…たしかに。つまり、おじちゃんとサシで話をする必要があるってわけか。でも、おじちゃんがおばちゃんと一緒にいないくて、しかも仕事中じゃなくて、さらにはポチローが近くにいて話しかけられる状況なんて、そんな都合の良いタイミングなんてあるのだろうか。
 ちょっと考えてみたが、そんな場面は限りなく少ない気がする。少ないと言うより、きっと無い。おじちゃんが趣味で一人でジョギングでもしてれば話は別だが…と思ったところでハッと思った。潤んだ瞳はそのままに、ポチローがこっちを見てニヤリとしている。

「そうなんです。実はおじちゃんからも金木犀の香りがしたんですよ。でもおばちゃんからはしなかった。だから、おじちゃんはどっかのタイミングで絶対金木犀のあるどこかに一人で出かけているはずなんです」

 わぉ。すごいじゃんポチロー!と言いかけたが、ちょっと待て。金木犀のあるどこか⚫︎ ⚫︎ ⚫︎って一体どこなのだ?わたしのよく行く公園ではおじちゃんを見かけたことがないぞ。ポチローも困った顔をしている。

「ただ、それがどこの金木犀なのかが分かんないんです。少なくともマチ子さんのよく行く公園じゃ無いってことは分かるんですけど…ぼくも色々なところの金木犀の香りを嗅いでみたんですけど、どれもおじちゃんのとは少し違うんですよね。でもだいぶ絞れてはきたんです。だから、マチ子さんには今からぼくが言うエリアに金木犀が無いか探して欲しいんです。で、もし見つけたらその花を取ってきてください。手分けして急いで探さないとそろそろ花が散っちゃうし、これを逃したらもう次はない気がして…だからお願いします!」

 もちろん断る理由なんてない。わたしだっておばちゃんは大好きだ。善は急げ、どんどんやろう。わたしの返事を聞いてポチローはすごくうれしそうだった。せっかくのサシ飲みだったけど、ビール一杯で切り上げてさっそく金木犀探しに取り掛かることになった。居酒屋を出る時に、ふと気になったことを聞いてみる。

「ところでさ、金木犀の香りってそんなに違うものなの?」

 ポチローは憮然とした顔で答えた。

「全然違うじゃないですか」


7 鳥澤銀治


 近頃の朝は冷える。いつもの時間に布団を出て、台所でとりあえず白湯を一杯飲む。顔を洗い、身支度をし、日課であるジョギングをしに外へ出た。
 外はまだ薄暗い。軽く準備運動をして、体をゆっくりとあたためていく。

 若い頃はいきなり走りはじめてもなんとも無かったが、寄る年波には勝てない。今は恐る恐る、自分の体の具合を確かめながら走っている。十の頃から手伝っていた店の仕事も、あと数年で半世紀になろうとしている。うちには子どもがいないから、店は自分の代で終わりだ。あと数年、これまでの時間に比べたらほんの少しだが、そのほんの少しを続けるためにはこれまで以上に体力が必要だった。
 最近、家内の調子も少し気になる。自営業に定年は無いが、近い未来に店を畳んだら、感謝の意味も込めて家内と一緒にどこかへゆっくりと旅行でもしたい。そんなことをぼんやり考えていた。

 時間にして約20分。折り返し地点の目印にしている金木犀の木が近づいてきた。あそこでいつも少し休憩をしてから戻ることにしているが………おや?金木犀の下に人影が見える。若い男女のようだ。2人ともスーツを着ているからか、恋人同士のようには見えず、かと言ってこんな時間に通勤とも思えない。

 近づいてみると、うちの常連客の2人だと気付いた。無視するのもおかしいので声をかける。

「あぁ…どうも」

 若い男女は2人とも、とても寒そうだ。顔に疲労の色が浮かんでいるものの、喜びに緊張が混ざったようなそれでいて少し寂しげな表情をこちらに向けている。女性に後押しされるように青年が一歩前に出た。

「鳥澤さん、ですね。ぼく、犬山一太郎っていいます。お店に伺おうかとも思ったのですが、どうしても2人でお話がしたくて来ました。今から少しだけ、お時間をいただけますでしょうか。お願いします」

 わたしは少し戸惑いながらも、青年の必死さを肌で感じていた。真っ直ぐにこちらを見るその瞳には、なにか懐かしさを覚える底知れぬ力が宿っているのがわかる。わたしは、近くの公園のベンチで話を聞くことにした。


8 鳥澤銀治


 青年の話を聞き終えたあと、不思議と驚きは無かった。家内について思い当たる節があったというのもたしかにあるが、何よりも青年から感じる形容し難いエネルギーがこれが真実であることを証明しているように思えた。時に目を潤ませ、ただただ我々のことを思いやって言葉を紡いでくれているのが十分すぎるほど伝わってきた。こちとら、無駄に長く接客業をやってきたわけでは無い。人を見る目には、ある程度の自信があった。

「分かりました。家内にはわたしから説得しましょう」

そう言うと、青年の顔がみるみる明るくなり、ありがとうございます、ありがとうございますと何度も言っていた。後ろの女性もとてもうれしそうだ。

「いや、お礼を言わなければならないのはこちらの方だ。大切なことを伝えてくれて本当にありがとう。ところで、君たちは今日は仕事じゃないのかね?こんな朝っぱらから、わたしにそのことを伝えるためだけに待っていてくれたのかな?」

 わたしがそう言うと、どうやらそのことを忘れていたのか、途端に2人とも慌て出した。青年はしきりにカバンの中をあさっている。時計を探しているようだ。その時、何か資料のようなものがバサリと落ちた。わたしはそれを拾い上げ、彼に渡しつつ今の時間を伝えた。

 ふと、その資料の表紙が目に入って気付いた。

「あぁ…君たちは勝彦のところの会社の子か」

 2人が顔を見合わせて不思議そうな顔をしている。詳しく説明してやると、女性の方が何か思いついたように、青年にむかって資料が何やらと話している。そして女性は、わたしに頼み事があると申し出た。

 話しを聞いてみると、実に簡単な頼み事だった。この程度のことで今回の件の礼になるとは思えないが、断る理由が何一つなかったので頼みを引き受けることにした。2人は今から仕事に行く準備をするようだ。大急ぎでここを立ち去ろうとする2人に、最後に気になっていた事を聞いてみた。

「ところで君たち、どうしてわたしがここを通るって知ってたんだい?」

女性の方が、笑顔で答えてくれた。

「金木犀が教えてくれたんです」


9 桃井勝彦


 朝の一服は格別だ。最近は時代の流れか、愛煙家にとっては本当に肩身の狭い世の中になってしまった。吸う場所の少なさもさることながら、タバコの値段もひと昔前の倍以上になっている。妻と娘からは、もういい加減にやめれば良いと言われて久しい。簡単にやめられるのならもうとっくにやめている。
 こうして心置きなく吸えるのが職場の喫煙コーナーだけというのも寂しい。そろそろ潮時かもしれないと思いつつ、タバコをふかす。

 出勤前の今朝方に、家の電話が鳴った。電話を取ると、相手は昔からの馴染みだった。こんな朝っぱらから何事かと思ったら、その内容もなんだか不思議なものだった。しかし、お前がそう言うのなら言う通りにしよう。そう約束しておれは電話を切った。

 さて、そろそろ行くか。タバコを揉み消し、吸い殻入れに捨てて、営業課のある階へ向かう。

 営業課に入ると、みんなが立ち上がってこちらに挨拶してくる。別に座ったままでいいと言っているのに…そう思うが、まぁありがたいことだ。部屋の一番奥に座る課長の猿川も、こちらに気付いたようだった。

「おはようございます、部長。今朝はどうかされましたか?」
「おはよう。あぁ、来年頭にあるイベントの広告案件についてちょっと知りたくてな。あの市が発注元の、今度コンペがある…」

 猿川の顔から、途端に落ち着きがなくなっていく。順調やら滞りなくやら、ぼんやりした言葉を並べ立てるのみで、資料を見たいと言っているのに一向に出してくる気配がない。仕方がないので、担当者は誰だと聞くと、後ろから若い男女の2人組が私たちですと言いながら資料を手渡してくれた。パラパラめくって目を通す。

 うん、とてもよく考えられている。しかし、注意深く見てみると、もっといい方法があるのにそれを諦めて、仕方なく今のプランに落ち着けているようにも見える。

「これは君らの案か?もう少しだけ良くできる気がするが違うか?」

 2人に聞いているのに、猿川が横から口を出してくる。

「あの、部長、この件についてはもう…」

 猿川の発言を手で制し、2人の返答を待つと、もっと良くできますと笑顔で答えてくれた。2人とも顔にうっすらと疲労の色があるにも関わらず、目はエネルギーに満ちている。若さが眩しい。こういう若者がいてくれるのならば、きっと今後もこの会社を引っ張っていってくれるだろう。そんなたくましさを覚えた。

 猿川にはくれぐれも2人の意見を最大限取り入れるようにと釘を刺し、部屋を後にした。去り際に先ほどの男女がありがとうございましたと頭を下げてくる。お礼を言わなければならないのはこちらの方だ。

「親友の嫁さんを助けてくれてありがとうな」

 2人はより深々と頭を下げてくれていた。


10 マチ子


 ポチローは例の仕事をしっかりやりと遂げたあと、会社を辞めていった。もちろん引き止めたかったし、今でも引き止めるべきだったと思っているが、当時のわたしには引き止められなかった。
 「なんかそっちの方がいい気がするんです」会社を辞めると決めてから真っ先にわたしに報告してくれた時、彼はそう言っていた。その言い方はズルいよ。わたしが何も言えなくなっちゃうじゃないか。そう思いながら必死に笑顔をつくって、これからの彼の未来を応援した。

 鳥澤飯店はあの後すぐに閉店することになった。閉店理由について、オフィスでも様々な憶測が飛び交ったが、わたしたちだけはその理由がおばちゃんの入院であると知っていた。おじちゃんが、わたしたちだけにそっと教えてくれたのだ。退院するまでの間の一時休業にはできないものかと、わたしは素直な思いを伝えた。でも、おじちゃんとおばちゃんがじっくり相談して決めたことだそうだ。
 退院したら2人でのんびりと旅行でもしたいと話してくれたおじちゃんの顔が、今までに見たことがないほど爽やかなものだった。だから、閉店は寂しかったけれど、まぁこれで良かったのかなとも思っている。
 閉店の日には、わたしもポチローと一緒にお店へ行きたかったけれど、結局それは叶わなかった。長蛇の列が1日中途切れることがなかったからだ。でも、それだけみんなに愛された店であったということだし、みんなもわたしたちと同じ思いだということが知れてしあわせな気持ちになった。

 世の中のすべてのものには限りがある。永久に続くものなんてありはしない。終わりや別れは、こうやっていつも突然やってくるのだ。だからこそ、わたしたちは1日1日を大切に過ごさなきゃいけない。そんな当たり前のことをしみじみと感じた。

 あれから何度目かの、金木犀の香る季節がまたやってきた。金木犀の花言葉には気高い人というのがあるそうだ。たしかに雨が降った時に、その小さな花弁が潔く散ってしまう姿には気高さを感じなくもない。
 わたしにも本当に色々なことがあった。もちろん楽しいことばかりではなかった。でも、きっとどこかで頑張っているだろうポチローに負けたくなくて、わたしも一生懸命にやった。あの頃と比べて、今の方がきっと成長できている自信だってある。いつかまた彼とどこかで出会うことがあったら、話したいことが山ほどある。

 そんな感じで、この話もそろそろおしまいだ。長い時間、わたしの話しを聞いてくれてありがとう。さて、そろそろ今日も行かなくちゃ。外に出てほら、鼻からめいっぱい空気を吸い込むと、金木犀のすっきりとした甘い香りが身体全体に染み込んでいく。

 まだ金木犀の香りの違いはよく分からないけれど、

 うん。今日も頑張れそうだ。


ーーおしまいーー

あとがき

マジでここまで読んでくれてありがとう。はじめて12,000字も書いたから、いまこうして書き終えたぼく自身も本当に驚いている。金木犀はぼくの大好きな木のひとつで、実家にも植わっているから小さい頃から馴染みのある木だった。そんな木を題材にして、こういう話が書けたのは純粋に楽しかった。
この話はぼくの愛犬ロンと、妻の愛犬モルに送る。もうふたりともこの世にはいないけれど、ロンとモルが暮らす天国にも金木犀の爽やかな香りが届いているとうれしい。
また気が向いたらなんか書こう。


ーーー

このお話の元になったぼくのラクガキ。


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ぢぇぃ
100円→今日のコーヒーを買う。 500円→1時間仕事を休んで何か書く。 1,000円→もの書きへの転職をマジで考える。