講師に求める資質について

教育サービスは、金銭的な関係性を超えた部分で生徒と教師の関係性が構築できないと効果がでないと信じている。

というのも金銭的な報酬があると必然的に「生徒-教師」の関係性が「お客様-教師」という関係性になるからである。

お客様は受動的にこちらが提供するサービスを享受する。待っていれば勝手にサービスが向こう側からやってくるのだ。

しかし、言語やスポーツといった運動スキルが関わる領域において、この受動的な姿勢は能力開発を大きく阻害する可能性が高い。

サッカーを教えてもらう時にコーチの指示以外何もしない。自主練をしない。

想像しただけで、何も課題が解決できないことが分かる。

課題を解決するためにはお客様としてではなく、学習者として自ら能動的に動く必要性があるのだ。

そのためには「お客様-教師」の関係性ではなく、「生徒-教師」を築くことが大切になる。

つまりロールプレイ上、教師の立場が生徒よりも上にあり、かつ学習に対して半強制力を持たせることができるような環境が重要だ。

しかし、実際にお金を支払ってもらっているのにどうやって「お客様-生徒」の関係性を脱却するのか。

その答えは「教師の人間性」であると私は思ってる。

高校の時に通っていた塾にTOEIC満点の教師がいた。

その人は満点を取るのが趣味なようで、毎回のTOEICで満点を取ったスコア表をファイルにまとめて初授業の時に見せてくれた。

その時は「なんて気持ちの悪い趣味をしているんだ。。。」とドン引きしていたが、「生徒ー教師」の関係性を築く権威付けとしてはある程度効果的だと今になっては思う。

肝心の授業はというと、実はほとんど寝ていて覚えていない。

というのもその教師はクラス内にいる生徒たちに話しているというよりは、その場所に話しかけているようで、説明される言葉が全て空に浮かんでは弾けているような感じだったのだ。

テストで高スコアを取るテクニックを主に説明していたが、それは一見価値があるようで生徒個々が抱えている課題とは全く無縁のものだったと思う。

先生と生徒との間に見えない壁が確かにあった。

塾にもう一人、プロサッカー選手の通訳をしていたという教師もいた。

さっきの教師とは対照的に、その人は生徒個々人との対話を高速で繰り広げていた感じ。

ある授業の時に私がたまたま着ていたRed Hot Chili PeppersのTシャツを見た途端、「レッチリ好きなん!?」と前のめりに話しかけてきたり。そこから暫く「レッチリくん」と呼ばれたり。

今の時代はそういったあだ名はコンプライアンス的に問題なのかもしれないけれど、高校生の自分にとっては「生徒全体」ではなく「個人」としてコミュニケーションがとれた感覚がもてて嬉しかった。

その人とのレッスンはすごくよく覚えている。

意外と古典的な方法で、センテンスを音読して素早く日本語に訳す。これを1センテンスずつランダムで生徒が指名される。

英語を瞬間的に訳す、という作業を通すとその学習者の課題は浮き彫りになる。

「君は単語帳の一番最初にある日本語の意味を繋げているだけで内容をとれていない」だとか、
「文章を後ろから訳しているせいで全体のリズム感が悪くなっている」など、

各生徒ごとに細かいフィードバックをくれた。

その指導方法を “威圧的” と捉える人もいると思うが、自分にとってはちょうどよい緊張感があり、それが心地よかった。

同じようなすごい肩書きの人たちがいても、その中身によって生徒のモチベーションは大きく変わる。

単に英語の知識が豊富な人。教師としての指導経験がある人ではなく、受講生と一人の「人」として向き合える資質。これが教師として最も大切な資質。

こんな原体験があるから、新しく講師をリクルートする時も「人として話していて気持ちが良いか」という観点をすごく重視している。

それが成果につながっているかわからないけれど、嬉しいことにSOLOで働いてくれている先生たちはみんな人柄が良い。

サービスを長年やっているといつのまにか自分が知識人なのでは、と錯覚してしまうことがある。知っている情報が増えすぎているのだ。

しかし、この情報や肩書といった表面的な部分ではなく、内面的がより重要なのだということを自戒の念も込めて書き残しておこうと思ったのでした。

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