「器に合う」ということ
この前「EIGHT-JAM」という番組で宇多田ヒカルさんのインタビュー映像を見た。終始、言葉も出ないまま呆然と画面を見つめてしまう程、一人のヒトから発せられる言葉に心を奪われてしまった。
特に印象に残っているのは「誰に向けて歌を作っているか?」(確かそんな意図の質問だったと思う)という質問に対する回答だ。彼女は「自分自身」と答えた。(実際はもっとちゃんとした説明があったが)
これだけ聞くとありきたりな回答な印象を受けるが、インタビュー全体から感じた「圧倒的感」は、受け手の解釈を試されているような気がした。私の足りない頭で解釈すると、彼女が「自分自身」と答えた理由は以下のようなことだったと思う。
自分を深掘って、その中心にある本質(真理)にまで到達するということは、 “ヒト” という動物の本質を理解することと同じである。結局、我々は同じ種類の生物なのだから、根っこの部分では共有できる感覚がある。この根っこまで言葉を研ぎ澄ませていく事が、他者の共感を生むのだと思う。
自分に向けて届けている言葉が、他者の心を動かす言葉になっている。言葉にすると簡単だが、他者の共感に至るまで、深層まで自分との対話を続けてきたから紡がれた言葉。
我ながら自分勝手な解釈だと思うが、私は彼女の言葉をこんな風に受け止めた。
この答えにハッとした。というのも、サービス(事業)を作るというのは常に「お客さんはどう感じるか?」ということを軸にサービスのブラッシュアップをしていくものだ。しかし、お客さんが「良い」と感じるものだけを繋ぎ合わせても、長く続く良いサービスになるとは限らない。
逆に自分が「大切にしたい」という部分を研ぎ澄ましていったほうが、独自性が生まれてサービスが受け入れられたりする。
自分の経験の中でも腑に落ちる場面がいくつか頭によぎった。
例えばSOLO IELTS TOEFLでは、サポートが終わった人でもCVの添削や留学相談、手続きの確認など、実際に海外に行く時に不安になることがあれば無料で相談に乗ることにしている。
何故かというと、世の中にたくさんのサービスがありすぎて、いちいち「どのサービスがいいだろう?」とゼロからリサーチする事が、自分自身とても面倒臭いと感じるからである。
「○○ 評判」と調べてもサクラが書いたとしか思えない記事ばかりで、正直何を頼っていいかが分からない。
あと、気軽に相談したくてもしつこく営業がきたりすることも嫌なのだ。一度メールを登録しただけで、毎日スパムのように連絡がくるのがストレスだ。
それだったら、一回話した事がある信頼できると感じる人と相談がしたい。今の時代、そんな人と出会う事がすごく難しい。
自分がネガティブな感情を抱くようなことをやらない。自分だったら嬉しい、助かるというようなこと。これがSOLOのサービスを作る時に一番大切にしている部分である。
そのおかげか、受講生の方々とはサポートが終わった後も良好な関係が築けている気がする。(単に私が楽観的なだけかもしれないけど)
何より自分にとって気持ちが良い。堅苦しく “サービス” として提供してしまうと、どうしても背伸びをしてしまったり、本当はできないことでも「できます!!」なんて無理をしてしまう。
自分自身の根底にある直感や感覚を突き詰める。こんな当たり前なことに36歳になってようやく気づいた。
実は、SOLOは当初、学習塾としてサービスを愛媛県松山市でスタートした。
「海外に踏み出す一歩をサポートする英語指導」という名目のもと経営してみたが、結論から言うと2年弱で事業を辞めることになった。
というのも、ほとんど受講生が集まらなかったからだ。当時の松山市では「海外に行く」というよりも「大学に行く」という価値観の方が強かった。(今は違うと思うけど)
結局、当初掲げていたスローガンは数ヶ月で忘れ去られ、ただの受験指導塾になってしまった。そうなると、毎日の仕事が “作業” のように感じられ自分のやることにやりがいを感じられなくなってしまったのだ。
これは周りのニーズに応えようとしすぎたあまり、自分らしさを見失ってしまった例。
最近よく相方と「器」という話をする。
相方に言われて心に残っているのは「ルークは大企業の社長でブイブイ言わす器じゃ無いよね。」ということ。ここでいう「器」とは、その人が持つ気質とか本質とかというような意味。
この言葉にはギクッとした。なぜなら自分もなんとなく同じようなことを思ってたからだ。
自分の性格的に、「大人数の従業員を従えて、ベンチャーキャピタルから何億円の出資を受けてイノベーションを起こす!」みたいなのは正直合わないと思う。
それよりもむしろ小さい人間関係を大切にして、ちゃんと人と話していく方が自分の気質にあっているような気がするのだ。(能力的にも)
自分の「器」じゃ無いことをやると、そこには嘘が生まれる。その嘘は歪みとなって、最終的にはサービスそのものや自分の身体に悪い影響として出てくるんじゃ無いかと最近思っている。
この前、幼稚園のパパ友に誘われてフットサルをした。
約10年ぶりのフットサルだから、体力面やケガのことを考えると内心ビクビクしていた。サッカーは高校までやっていたが、そこまで上手くない。プレーの面でも足を引っ張ると思うと最初はあまり乗り気でなかった。
しかし、実際にプレーしてみると意外と身体も動き、思ったよりはちゃんとプレーする事ができた。「ルークさん、下手って言ってたけど上手すぎますよ!」なんて言われちゃって。
これで気を良くした私は、2回目のフットサルも意気揚々と参加。読んでいる人は想像がついていると思いますが、開始30分でしっかりと怪我をしてコートを去ることになりました。笑
サッカーができる器じゃないのに、周りに煽られて「自分はできる!」と勘違いしてしまった。やはり自分の気質と合わないことをするとダメ。
湿布を貼った足首を見つめながら、しみじみとそう思った。