技能を超えたところにある言語力

最近になって「英語の勉強はやっぱり必要だ!」という意見の波が強くなってきたように感じる。

私が2019年に書いた記事のときは丁度「AIの進化がヤバイ!!」というムーブが強くなっていて、その頃はみんなこぞって「英語の勉強はこれから必要なくなる」と言っていた。

自分の中で湧き出た直感が合っていたということにホッと安心した反面、世論の変わりやすさ、流行りの流れの速さに少し驚いている。

その時書いた記事が、以下になります:

あの頃はイーロン・マスクが「脳内にマイクロチップを埋め込めば言語学習は不要になる」と言っていた頃で、多くの人がその意見をなんとなく信じていたように思える。

断定的な口調。

その領域に関しての深い知見。

社会的なステータス。

これらを持ち揃えたいわゆる勝ち組の声に、私たち一般人は最も簡単に影響を受け、その度に不安になる。

私は本当は見たくないのに「○○億稼ぐ敏腕社長が語る!経営において重要な考え方!」みたいなYoutube動画をよくクリックしてしまう。(本当に見たくない!と思っているのですが、何故か気になってしまうんですよね。)

そういった動画で「これからは海外通貨を稼がないとヤバイ。」みたいな内容を見てしまうと、途端に不安に駆られて、あれこれと浅薄なアイデアを考えたりしてしまう。

不安になると一日中ネガティブが頭を過り、仕事にも家族にもいい影響がない。知っているのにやってしまう。

私がこうやって本来必要ないのにNoteに自分の考えをまとめる理由は、できるだけ自分の言葉、経験を言語化することで、所謂 "勝ち組" の言葉に心が揺れないようにするという目的が大きいのかもしれない。

資本主義の時代に "勝ち組" になる人たちは総じて合理主義を極めている人たちである。

これは私の感覚的な印象なのだが、合理主義を極めている人たちは、言語を「単なる技能」として認識しているように感じる。

英語は自分の言葉を変換するためのツール。

そう考えると、確かにAIによる翻訳や文字起こしによって代替できると判断できるかもしれない。

しかし、言語を教えていて思うことは、言語学習は単なる技能ではなく、態度・姿勢・考え方、なのではないか、ということ。

自分とは異質のものに対して、違和感があったとしても受け入れ、それに対して興味を持つ。新しいことにチャレンジする。異なる価値観に対して興味を持てるようになる。時には郷に従える柔軟性。

こういったソフトスキルの方が、単なる技能的に英語が上手いよりもよっぽど重要だとしみじみ思います。

ステータスゲームが中心になっている今の社会では、英語技能の高さを証明するために様々な資格を保持することが一種のマウンティングの素材になっている。

しかし、試験を受けるのが上手い人が、必ずしも海外に行って充足した生活を送れるかといえばそうではない。

日本で得た信用の大半は、外国で換金することができない。

そこを理解してないと、日本で培った変なプライドが邪魔をして、何だか鼻につく奴になってしまう。

海外に住む人たちと円滑にコミュニケーションを取るのならば、英語のうまさどうこうよりも、可愛げだったり、どこかほっとけない感の方がより重要だ。

例えば、オーストラリアではカンガルーやクロコダイルの肉が普通に売られている。

それを「日本とは異質!」と思って受け入れないと、そこからコミュニケーションの芽は育たない。

「えー!?これ食べるんですか、本当に!?」と言いながら恐る恐るチャレンジして見る方が、それが美味しかったにせよまずかったにせよ、現地人はリアクションが見れて嬉しいのだ。

失敗してもいい。自分の中の異なる価値観にチャレンジする。

そうやって頑張っている姿を見ていると応援したくなる。何かしてあげたいと思う。

他者に対してこういった感情を沸き起こさせることが、技能を超えたところにある英語習得の本質なのではと思っている。

最近、シンガポールの人たちとZoomで話す機会が多い。

個人的な体感だけどシンガポールの人たちは話すテンポが速いしお喋りな気がする。

この前はシンガポール人3人とZoomをした時、あまりにも相手の話が終わらなすぎて途中から何を言ってるか分からなくなった。

英語は理解できるが、現地の話とか話が飛び飛びだったりしてイメージができなかったのだ。

だから必死でニコニコしながら「へへへっ」と頭をポリポリ掻いて聞いていた。

これは可愛げになるだろうか。ならないよな、多分。


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