合理の枠から外れる
こんな顔をしているがピザやパスタよりも生姜焼き定食の方が好きだ。特に老夫婦がやっているような古めの定食屋にいくと妙な安心感を覚える。
学生の頃は学食よりも、学校の裏手にある昔ながらの定食屋でお昼を食べることが多かった。
そこのランチには何故だかヤクルトが一本ついてくる。和食にヤクルトという謎の組み合わせだが、その店が好きでよく通っていた。
ヤクルトとは別に店員のおばさんの性格も心地よかった。誰に対しても敬語を使わず、テキパキと仕事をこなす下町の母ちゃん的な存在だった。
「頑張って勉強してきな!」
ある時はこんな風に背中を叩いて送り出してくれた。私はなんだかそれが嬉しくて、東京に住んでいる孤独感が薄れた気がした。
不思議なもので東京はあんなに人が多いのに、心は孤独を感じる。(と田舎者の私は思った)
最近になってその "孤独感" の原因は、東京が合理性の結果で出来た街だからではないかというようにふと思った。
合理性はシステムを円滑に回す上で、最も重要な要素である。ルールに載っていないこと以外を対応せず、全て決まったルールのもとに行動を最適化していく。
合理性とは突き詰めると "人間性の排除" なのではと思う。だから、ヴェローチェの店員には感じたことのない親しみ感を、定食屋のおばちゃんには感じたのではないだろうか。
お客に対して「頑張りなよ!」という必要性はどこにもない。だけれども、その必要性から外れた思いがけないプレゼントに対して私たちの心は敏感になっているような気がする。
ふと大学の授業を思い出した。
基本的にどの授業もあまり面白いとは感じなかった。教授たちはカリキュラムというルールに沿って、必要な情報を無駄なく説明することが中心だったからだと思う。
面白いと感じた授業はどれも、そのルールから逸れたライブみたいなものだった。その場にいる生徒のリアクションや質問から話を展開し、ときには無駄な話まで脱線する。(決して本線からも逸れない)
あの授業には、確かに教授の "人間性" が反映されていた。
中学、高校で人気のあった先生たちもそうだ。みんな単にカリキュラムに沿って授業をこなしていた人たちではなく、そのルールから逸脱した関わりがあった。
合理の枠から外れる。
これは著しいスピードで合理化が進む社会の逆張りのようだが、実は我々が心の底で欲しているものなような気がする。
この前カウンセリングで海外進学の相談に来た方に、その方のPersonal Statement(自己推薦文のようなもの)の添削をしてあげたら、ものすごく感謝をされた。
「サービス外なので…」
「それはやってませんので…」
と突っぱねることは簡単だし、他の方のカウンセリングもあることを考えると断った方が合理的である。しかし、あえてそのシステムから外れた行動をとったことが、その人にとっては思いがけないプレゼントになったのだと思う。
もちろんそれをお節介と感じたり、場合によってはうざいと感じる人もいると思う。だけど、心が孤独だった私はそんな非合理性に救われた。
「意図的に合理の枠から外れる」
SOLOではこの考えを大切にしていきたいと思った。