理性に反した行動を自制する(週末日記#25)

人は悪いこととわかっていても止められないことが多々ある。僕は、そのような行動は理性では理解できているはずなのに生存のために本来備わっている欲のために引き起こされるものだと仮定している。

欲に任せた行動は、現代の世の中で「悪い」とされている様々なことを生み出す。シンプルな例を挙げるならば、痴漢などの犯罪は「性欲」によるものだし、肥満などの健康被害は「食欲」によるもの、といった具合だ。

僕は、人間が今の社会をうまく生きていくための方法は、非常にざっくり抽象化すると、欲の自認と、理性での自制だと思っている。

これらを論理的に分析するために、この記事では以下の目次に沿って話を進めていくこととする。

欲とは

ここで僕がいう欲とは本能(三大欲求)に近い。食欲、性欲、睡眠欲などは、理性によって生じる反応ではなく、人間が本来備えているなにかによって引き起こされるものだ。この欲は生存、さらにいうと子孫繁栄のために組み込まれているオプションだ。これに逆らうことは非常に難しい。

これらの欲による行動の例を挙げてみる。

食欲でいうと、ダイエットをすると決めたのにコンビニでケーキに手を出してしまうことなどだろう。これは本来狩猟をして生きていた人間の名残と言える。昔の人間は狩のためのエネルギーを蓄えるためにできるだけ高カロリーのものを摂取なければならなかった。その時は動いていたため、今のような肥満に陥る原始人はいなかっただろうが、食へのアクセスが非常に低エネルギーになった今もその本能が残っているため、肥満に陥る人間が多く存在している。

性欲でいうのならば、良くニュースを騒がせる芸能人の不倫問題などだ。これは、もともと人間は優秀な遺伝子を持った異性(現代は異性だけとは限らないが)に性的な興味を持つようなオプションが組み込まれている。結婚などの文化がなかった昔の人間はこれで全く問題がなかったが、現代社会では一人のパートナーを決めるのが当たり前だ。しかし、これもまた同じように本来のオプションは残っているので、不倫といった社会的なエラーが生じるようになっている。

このように、現代社会で起こりうる様々な問題というのは、本来組み込まれている本能という古いオプション(欲)と、人間の(文化的、社会的、テクノロジー的)発達とのギャップからくるものだということが分かる。

人は文明がない昔の原始人のように、このデフォルトでセットされている欲にだけ任せて生きてはいけない。社会がそうさせてくれない、といったほうが正しい。

この欲のブレーキとなるのが理性である。

理性とは

理性とは一般的に、道理に従って判断したり行動したりする能力だ、すわなちここで僕がいいたい理性とは、本来備わっている本能というオプションに逆らった行動を取れるブレーキのようなものになる。

欲と理性の違い

実はというと理性も欲と同じく本来から人間に備わっている能力だ。しかし、欲と違う点は自分の考えや目標、すなわち道理によってその原理が変わることだ。

欲は(突然変異などの特殊なものは除き)変えることができない。痩せたいと思ってもお腹は空くし、子孫繁栄に興味がなくても性欲は存在する、といった具合に。

よって、文明がなかった人間が誕生した当初は、欲も理性も同じ目的のために使われていたのかもしれない。しかし文明が非常に発達してしまった今の世界では理性と欲は別の方向を向いていることが多い。

このように、理性は人間が進化するのと同時に、柔軟に変わってきた。そのため、理性による行動がその現代社会において正解であることが多い。

これがなぜ欲よりも理性を重要視しなければならないのか、という問いに対する答えだろう。

正義が理性を作る

ここまでで述べてきた通り、理性というのは定めた基準に従って柔軟にその形を変える。

今までは「文明の発展」という非常に大きな枠組みで見てきたが、これを「個人」レベルまで突き詰めると理性のさらに細かい差が見えてくる。

さらにいうならば何を善とし悪とするか、その価値基準によって理性の度合いは異なる。これが道理を作る。

例えば、ゴミのポイ捨てを考えてみよう。あなたは誰も見ていない草むらで紙切れ一枚を捨てることは悪いと思うか?良いと思うか?

紙切れ一枚くらいであれば捨てても誰にも迷惑をかけない、と思う人もいるだろうし、誰も見てなくてもどれだけ小さいものでも人としてゴミのポイ捨ては不正義だ、と感じる人もいるだろう。

このような判断はデフォルトの設定によるものではなく、その人の生きてきた環境、または親からの遺伝によって異なる理性によって違う。

何を正義とするか

正義に対する価値観で人が欲を自制できる度合いが変わるということが分かった。では、何を正義とすれば最大限に理性を保つことができるのか。

例えば宗教がその一つになるだろう。

宗教の中には、神を正義とするもの、道徳を正義とするものなど様々だか、これらに共通しているのは、価値判断をする際の基準を提供してくれるという点だ。

宗教が人と密接な関係を持っているのには理由がある。それはこのよう決まった基準に従って意思決定する方が楽、もしくはそれがないと非常に生きづらい人生になる可能性があるからだ。

例えば、日本は無宗教国家として名が知られている。加えて精神病床数が世界一多い国である。

東洋経済オンラインより引用

これは完全に僕の仮説でしかないが、無宗教と精神病にまったく関わりがないとは言えない気がする。

精神病に陥る原因は、ざっくりいうと「精神的な居場所がなくなること」である。それが人、夢、経験など様々だ。宗教信仰者(程度は違えど)は少なからず根本に信じているもの、生きる上での軸としているものが固まっているため精神の居場所が無くなることはない、その結果、精神的な病に陥る可能性が無宗教者と比べて相対的に低くなる、と僕は考える。

生きる上で軸を定めること、自分の中での正義を明確化することは非常に重要である。これができている人は、比較的楽に人生を歩んでいるような気がする。そのような人の数は日本には少ない。

話がそれてしまったが、正義はどんなものでも対象になる。それが神でなくても、尊敬する人や歴史上の人物、本から学んだ思想、など何であっても良い。唯一避けなければならないのは、軸を持たないことだ。あなたが何かしらの意思決定をする時にその理由を自問自答してみると自分が基準にしていることが分かる。そこに一貫性がなければあなたの軸はまだ弱いと言えるだろう。

締め

書きはじめてから2週間が経過してしまったため、最初に何を伝えたかったのか忘れてしまった。が、概ね言いたいことは最後の方に書いた自分の正義を強固なものにすることによって悪質な欲を断ち切ることができる、ということだろう。

最近、文章をうまく書ける人になりたいと思っている。この日記を始めた当初はそんな気持ちなど微塵もなかったが、続けていくうちに、論理に基づいて文章を構成していく能力と、伝わりやすい文章に必要な語彙力をさらに伸ばしていきたいと思いはじめた。

文章であれ、言葉であれ、人に自分が思っていることを的確に伝える力は生きていく上で大きな意味がある。特に、自分を支えてくれる、人との関わりを作るときには非常に重要だと思う。

次回からの日記では伝えやすい文を書くことを気をつけながら書いていこうと思う。

では、また次の記事で。

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