ぜんぶ曇り空と北風のせい。
2024.05.09
若草の葉がゆれる風は心地いい、はずなのに今朝は冬に戻ったように布団からなかなか出られなかった、窓から青空を、覆い尽くす目論みが果たせなかった長細い雲が漂う、目指していた雲の形になれなかった彼らの悔しさが、強い北風になってわたしたちに八つ当たりしているとしか思えない、駅までの5分ちょっとの道のりで、衣替えでしまったばかりのセーターが恋しい。
風が出ているせいか、空気はとてもからっとしていて、曇っているのに大文字山の稜線はくっきりとみえる、ついこの間までは雨雲に溶けていたのに、いまは生え始めた若葉と共に瑞々しい緑色を放っている、過ぎ去った「穀雨」はすごい、ついこの間まで枯れていた木々たちを、蘇らせたのではないかと、錯覚してしまう。
七十二候のカレンダーによると、「立夏」のこの時期は「蛙始鳴(かわずはじめてなく)」らしく、夏の訪れを予感しながら田植えの支度を始めるのだという、蛙といえば、先日訪れた金勝アルプスでその蛙たちの合唱をきいた、その種類の名前は忘れてしまったのだけれど、山を登る道中の穏やかな川辺で彼らは呼び合うようにさまざまな方向からその声を鳴らしていた、音の鳴る方向をみつめて姿を探したのだけれど、土の中や茂みのなかに潜む彼らをみつけることはできなかった、ふとその時、「これ、本当はスピーカーが仕込まれてるのでは」と思った、一緒に歩いていた相方も、そう笑っていた。
たぶん、わたしと同世代、もしくはわたしよりも若い世代なら容易に生まれる考え方だと思う、生まれたときからテレビがそばにあって、車のカーステレオですきな曲を聴いて、思春期のそばには白いイヤホンがあって、遊園地には高性能のスピーカーで夢の音楽が流れていて、携帯電話にこめた緻密な技術の進化と共に成長してきたわたしたちにとって、電気を媒介しない音に接する機会は少ない、いや、正確には接する機会がたくさんあるはずなのに、目や耳に届かず、脳が認識していないのだと思う、もったいない行為、その結果わたしには、わからないと思う瞬間が時々ある、本物をみてもきいても、本物だと信じきれない瞬間が、そこにあるはずの価値が、この年齢になって身体で感じてきた記憶の少なさとあわせて、情けないなって反省してしまう、蛙の鳴き声も、姿がみえないだけでスピーカーと思ってしまう、自分の発想の限界にも、豊かな時代に生きているはずなのに、貧しさを感じてしまう心の渇望具合に、猛省して、走る電車の座席のなかに、沈んでしまいそうだ、あーあ、ぜんぶ曇り空と北風のせい。
だからだろうか、手帳のように、フィルムカメラのように、電気を媒介しないものたちを大事にしようと思うわたしの頑固さは、ここからきているのかもしれない、書くことと撮ることがすきで、精一杯守っているのかもしれない。
もう京橋だ。