二日前の菜虫の話
2024.03.19
朝、温い布団から起き上がると寒さで身体が縮こまる、実家にいた頃も寒かったけど、半世紀も建っているこの部屋は、まだ冷たく素っ気ない、おまけに昨今の電気ガス料金の高騰で、会社に行くまでのたった1時間ちょっとにかける暖房はなく、とりあえず朝飲むための緑茶を淹れるために、お湯を沸かす、ガスをつける、そして台所に置いた姿見の前で、寝癖のままラジオ体操を始める。
なんの気まぐれか、我が家のお手洗いに今年から、二十四節気と、七十二侯が書かれたカレンダーを飾っている、きょうはちょうど「啓蟄」の最後の日で、七十二侯で言うところの「菜虫化蝶」、読みは「なむし、ちょうとなる」、初めてこの言葉をみかけたとき、素直に可愛いと思った、小さな虫を菜虫と名づける古来の言葉の豊かさに、脱帽した、そして言葉の意味を知って、ますます、すきになった、意味は、冬にサナギになっていた虫が、春の訪れとともに蝶に化ける頃、でも今年は雪すらまともに積もらず、しかし3月になっても春らしい暖かさをちらつかせないまま、底冷えする冬の名残は圧倒的存在感、そういえば今年に入ってまだ蝶を見かけていない、でもきょう書くのは蝶になろうとした、わたしの話。
二日前、友人の結婚パーティーがあった、馴染みの顔が集まって、若い夫婦の門出を祝うための集まりだった、こういう機会に参加できるのはこの人生でも稀なことで、しかも稚拙ながら歌も披露することになったので、年が明けてから約三月、わたしはこの日に着る衣装をインターネットの海で探していた、本当は百貨店で買ったベロアのワンピースもあったのだけれど、人生にそうない機会、そして大人になって何でも自由に買えるいまだからこそ、今まで無意識に諦めていて着る機会をなくしていたものを、どうしようもなく着てみたくなったのだった。
探して探して選んだのは、白のシースルーが美しい、マーメイドドレスだった、かわいいとかっこいいの同居、そしてお値段も約2万円、ベロアより安いからいいかも、ふふふ、購入、届いて袖を通すのが待ち遠しかった。
そしてパーティーの1週間前にドレスがやってきた、大きな段ボールに、透明なビニール袋に包まれて、やわらかそうなドレス、嬉しくなって、暖房もつけないままの部屋で服を脱いで、ドレスを着た、そこではっとする、ウエストの現実、きつい、入らないわけじゃないけど、きつい、なにこれ、まじで。
「運動すれば、万事解決や」
進まないドレスのチャックにあたふたしながら、昔の恋人に言われた言葉を思い出す、その頃から日常に運動がなくなって、毎日会社のデスクワークをしているがゆえに、不調が続いた、なぜか理由がわからなくて、でも恋人はその理由をあっさりと見抜いていて、とてもリラックスした表情でわたしにその言葉を投げた、それをわたしは、わかったつもりでいて、でも何もしなかった、運動しなくても何とかなると、心のどこかで奢っていた、あれから幾年か経って、定期的な不調を不安視するわたしへ、今の恋人はたまにそう言ってくれる、それは真似ではなく彼の心で掘り出した言葉で、デジャビュ、とほほ、そうか、運動してこなかったつけが、いまここに、この身体にきているのか、わかってはいたけど、わたしは2万円のドレスを心のどこかでやっぱり見下していたのかもしれない、安いけど着こなしてあげるわよ、みたいな、恥ずかしいけど、でもこの服を着て、わたしは完敗した、そんな上から目線で着れるようなドレスではなかった、ほんとは着るために努力しなければならない、服に追いつくために、いや、この服が似合うわたしに追いつくために、そのための運動。
それから毎日、いや、サボりかけた日もあったけど、最近はラジオ体操を続けている、さすがに理想には近づけなかったけど、パーティー当日はするりとドレスを着ることができて、ほっとした、お洒落は我慢、とよく聞くけど、我慢というよりは努力の結果な気がする、その結果に満足できるかどうか、線引きはその人次第、でも着たい服が着られてよかった、そんな二日前の菜虫の話。
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