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#naoblog 紀行
私は、ある本のある一章を読んでいました。
その本から受けた印象としましては、ことに叙情的と言いましょうか、私の目からはより素直な感情の吐露のようなものが見られ、深く沁み入るものでした。
大きく言うと「人生について語られている」、旅の一途を綴った紀行文のようでした。
なぜその文章に惹かれたのか、それは他でもない小坂菜緒が書いたものだからかもしれませんが。
しかしながら、少し風に言ってみると「表面に見える言葉というのは言葉でしかない」、
何が言いたいかといいますと、彼女の文章からは表現やその技法のみでは受け取りきれない、
「その裏にある思考の深み」が、無言の主張の如く語りかけてくるように感ぜられるのです。
言の葉を紡ぐためにおびただしいほどの根や幹、枝を生やしているのではないか、ということです。
(ある本によれば、「真のアートに必要なのは植物の花にあたる技法ではなく、根にあたる興味、好奇心、思考である」とのことです。)
しかし、彼女の文章というのは、時折ある種の悩みの吐露とも読み取れましょうか。(しかしそれは読みすぎだとも思えますが。)
コーヒーを一口飲みました。飲むことができるようになったのは、ちょうど19歳の頃だったでしょうか。最初に飲んだのはアイスのほうでしたが、いつしかホットを好むようになりました。
冷ますために置いておいたのですが、それはすっかり冷めきってしまっていました。
もはやアイスなのかホットなのかよくわかりませんでした。
#naoblog の巻末に添えてある、その「あとがき」を見ました。同時に私はハッとました。
伝えたかったことが、どこかで曲がってしまって、真っ直ぐに届かなかった時
少し、悲しい気持ちになるけれど、ある意味人間らしいと捉えることで、緩和されるのでしょうか。
それを、”誤魔化し”と言ったりするのでしょうか。
その言葉は彼女本人の悩みにすら思えました。
いや、きっと悩みなのです。
同時に、おこがましくはありますが、同じような疑問、心の澱のようなものを持っている人がいたのだと思い、何とか答えを出したい、と俄かに感じました。
感情の抱いたままの姿を言葉にしてあらわすのは難しいもので、
それはどう表すかという意味であり、勇気がいるという意味でもあります。
ましてやそれは、深まれば深まるほど難解で、晦渋で、複雑になり、その伸ばした枝と枝とが絡まってしまい、齟齬を起こしポッキリ折れてしまうようなこともある、
葉など紡ぐことすらできない、喪失感に似た哀愁だけを残すのです。
人間は何を考えているのか皆目検討のつかない生き物ですが、それを突き詰めようと努力する愚直さ、なによりもやさしさ、それが彼女の文章からは沁みいるように垣間見えてくると感じるのです。
小坂菜緒の語気、言葉からは、感受されるものや心に堪えるものが多い、それは私には、似通っているようで異なるナアヴァスネス、いや「繊細さ」なのでしょう。
紀行文はまだ途中であるように思われます。
願わくばいつか彼女自身のたくさんの言葉を編んだ本を読んでみたいです。
小坂菜緒さん、お誕生日おめでとうございます。
(参考:2021.04.28 小坂菜緒ブログ)