昭和40年代〜50年代の天満界隈
JR大阪駅から環状線の外回りに乗って1駅で、天満駅に到着する。
今は若い人たちの飲食店街としてにぎわう天満だが、かつては娯楽・エンタメのまちでもあった。天満もまた、移り変わりが激しいまちなのだ。
天満在住70年、傘寿を迎えられた石野拓郎さん(仮名)に、天満のむかしを語ってもらった。
昭和40年代や50年代と現代がどんなふうに違うのか。石野さんのお話から探ってみたい。
どこから話をしましょうか。
私が天神橋5丁目を少し東に入った池田町に引っ越してきたのは、昭和30年(1955)の秋でした。
この界隈は大阪大空襲で焼け野原になったのですが、その戦争も終わり、朝鮮戦争を経て、天満も活気づいてきた頃です。商店街も復興し、天満卸売市場にも、朝の暗いうちからセリの声と鐘の音が響いていました。
その頃、環状線はまだ環状になっておらず、円がつながったのは昭和36年(1961)のことでした。
大阪駅と天王寺駅を結ぶ城東線が大阪市の西側を走っていた関西本線の貨物線と連結し、環状線が完成したわけです。当時は、省線と呼ばれていました。
城東線が環状線となったとき、近くの産婦人科に勤務していた看護婦さんたちが、入場券で環状線1周を企てて、途中で検札に見つかって支払いをさせられた、なんてこともありました。
大阪駅に出入りする列車は、まだまだ蒸気機関車も多く、ピー、シュッシュッという音が天満界隈にも鳴り響いていたことも覚えています。
大阪拘置所が天満の繁華街に来る計画が持ち上がった
天満駅の改札から北に出ると、今でも細い通りが北に延びていきます。
かつての北錦町ですが、平成27年(2015)くらいまでは、この通りの入口には「天満問屋街」という看板が掲げられていました。
天満市場がにぎわっていた頃、小売の八百屋さんなどが店を連ねていましたが、その後、飲食店がこれに取って代わるようになり、問屋街とは言えなくなったようです。
お店は通りの西側だけで、東側は赤いレンガの塀の仕切りがあって、その向こうは「延原倉庫」の広い敷地です。じつは明治のころは天満駅より北側の錦町、池田町、延原倉庫、「ローレルハイツ北天満」を含めた広大な土地は、「天満紡績」という紡績工場でした。赤レンガはその名残です。
後に東洋紡績に合併されますが、戦後は、今の延原倉庫の敷地は関西軽金属工場の跡地で、ずっと空き地になっていました。
そこに昭和26年(1951)、この場所に大阪拘置所を移設するという話が持ち上がったそうです。
拘置所が天満の繁華街に来るのは困ると、天神橋4丁目、5丁目の商店街の方々が反対運動を起こし、昭和30年(1955)、都島区の現拘置所の土地を所有していた延原倉庫と等価交換をして、拘置所の代わりに延原倉庫がやって来ることになり、この問題は解決しました。
大川の青物市場が中央卸市場に吸収され、
残った一部が池田町の天満市場を創業した
この細い通りをさらに北に進むと、通りは少し広くなります。ここを東に曲がって延原倉庫の北側を歩くと、「ぷららてんま」の表口に差し掛かります。
ぷららてんまとは、天満市場の土地に大阪市とUR都市機構が建てた、市場と賃貸マンションが共存した都市型のマンションです。当時は、全国初のアミューズメント型マンションと言われていました。
天満市場の前身である天満青物市場の歴史を俯瞰すると、こうです。
大川の北側にあった天満青物市場は、昭和6年(1931)に中央卸売市場が出来たときに吸収され、一部残っていたお店が戦後になって池田町に移動し、天満卸売市場として商売をはじめたのが、天満市場のはじまりです。
昭和50年(1975)あたりまでは、大阪中から青果を求めて車が殺到し、朝の3時頃から界隈は不法駐車で身動きが取れない状況でした。市場の南側では朝早くから青果のセリがはじまり、ひと段落するのは昼前であったようです。
ドブ川だった天満堀川
この通りをさらに東に進むと、「ローレルハイツ北天満」の南側に出ます。
現在のローレルハイツ北天満の土地は、もともとは東洋紡績の工場の跡地でした。レンガ造りの工場が空襲で焼け、昭和40年代半ばまでは焼け跡のままで、みんなはレンガ塀と呼んでいました。
天満市場の東の端から今の天満橋筋に向かう細い道には街灯もなく、空襲の焼け跡ゆえに閑散としていて、夜にそこを通る人は多くはありませんでした。小さい頃は、肝だめしの名所でもありました。
ここを抜けると、今は谷町筋からの延長で天満橋筋と呼ばれる大きな道路に出ます。昭和30年代の頃は、雨が降るとぬかるみのできる、細いがたがた道でした。
この道を南に歩くと源八橋の西詰に出ますが、大川からの水を引き込んだ営林局の貯木場があって、よく魚釣りに出かけたものです。
ここから南の東天満の交差点は、以前は空心町と呼ばれていました。国道1号線が通る大きな交差点でしたが、これより北は狭い未舗装のがたがた道でした。
都島大橋の少し下流、現在の「ロイヤルアーク花水都OSAKA」というマンションの北側あたりで大川と天満堀川が合流していました。大川も天満堀川も中之島まで流れていました。
ただ、天満堀川はドブ川で、けして美しい流れがあったわけではありません。この天満堀川を埋め立てて阪神高速を建設したので、天満堀川の流れについては、今の阪神高速をたどればよく分かります。
大川から分岐して、天満橋筋の下を横切り、延原倉庫の東側からカーブして、夫婦橋の下に至ります。そこから再びカーブして扇橋の下を流れて天神橋と難波橋の中間あたりで再び大川に合流していました。
阪神高速の長柄ランプから扇町、南森町にかけての連続したカーブは、この堀川に沿って道路を建設したからです。
昭和30年代から40年代にかけて中之島に貸しボート屋さんがあって、ボートでこの川を遡っていくと、扇町の夫婦橋までたどり着くことができました。
ローレルハイツ北天満の衝撃
ローレルハイツ北天満の東側を北に向かって歩いていくと、天満橋筋を挟んだ東の向かい側には、東洋紡績の社宅がありました。
子どもが多く、池田町の子どもとはベッタンやビー玉などではライバル関係にありました。ライバルといっても、彼らはとてつもなく強くて、復讐戦のたびにベッタンもビー玉も巻き上げられたもんです。
しばらくして取り壊され、昭和40年代初頭には、当時ブームだったボーリング場ができました。その後、今のマンションができるまでは、倉庫か資材置き場であったように思います。
ローレルハイツ北天満が完成したのは昭和54年(1979)2月のことでした。
焼け跡だったレンガ塀が取り壊され、しばらくはゴルフの打ちっぱなし場になっていましたが、14階建ての大きな分譲マンションが2棟、池田町にそびえ立ちました。
戸数は1,342戸を数え、大阪市初の高層マンションだったように記憶しています。このことは、この界隈にとっては、衝撃的な出来事でした。
ドーナツ化現象で児童の数が減っていく一方だった菅北小学校は、校舎を建て増ししました。
天満市場では、卸売りの店から小売店に転身する店が増えました。池田町、天五辺りは活況に沸きました。
天満一帯にはかつて3軒のストリップ劇場と4軒の映画館があった
ローレルハイツ北天満を西に抜けると、池田町のメインストリート、 池田町中央通りに出ます。今は業務スーパーになっているビルに、今も「東洋ショー劇場」というストリップ劇場があります。天満一帯にはかつて、3軒のストリップ劇場がありました。
東洋ショーのほか、JR天満駅の南側に「天満座」、天満座は大衆演劇からストリップ劇場に転身し、また大衆演劇の劇場に戻りましたが、いつのまにか廃業されました。
そして菅栄町西の交差点の南側に平成元年末(2011)まで営業をされていた、「ナニワミュージック」がありました。当時は男性の注目を集める地域だったのでしょう。
元に戻りますが、東洋ショーの階下、1階には東映映画の封切り館がありました。鶴田浩二、高倉健のころです。
東映の斜め向かいには今はなくなった宝塚映画、その斜め前は日活映画の封切館、石原裕次郎、小林旭の時代です。
その2筋西は、以前は東宝映画の封切館であった「第一劇場」の跡で、ここでは怪獣映画、森繁久弥、クレージーキャッツなどが上映され、子どものころにはよく通ったものでした。
この通りに4軒の映画館が集まっていましたが、少し離れた旧吉山町(現在の国分寺)にも洋画を流す映画館があり、天五の交差点を西に渡った中崎町商店街にも2軒、天六にも数軒の映画館がありました。
テレビの普及とともにそれぞれ廃業しましたが、この時代の天満界隈は、娯楽の殿堂として君臨していたようです。
右に曲がり、「ハタノクリニック」のある筋を越えてもう少し西に歩きますと、天五診療所を左に見て、天五の交番所の前がゆるやかな坂になっています。
ここが東洋紡績の工場の入口だったそうです。
少し前までここは石畳でしたが、現在は舗装され、坂であることが唯一工場跡の名残となっています。
昭和50年代はまちの台所だった一松食品センター
交番を過ぎて南に折れて天満駅の方向に少し行くと「一松マーケット」という市場がありました。今も「一松食品センター・天五横丁」として飲食のお店に間貸しをされていますが、昭和50年代にはまちの台所として繁盛していました。
東側から商店街まで抜ける4列の市場でした。火事が起こり、建て替えられた際に左右2列になり、今も八百屋さんやかしわやさんが残っていますが、現在はほとんどが飲食店になっています。
この横丁を西に抜けると、天神橋筋五丁目の商店街に入ります。このアーケードを北に向かうと天五の交差点から東に延びるアーケードを過ぎて天六に向かいます。
天神橋筋商店街では天五商店街が最初にアーケードを架けた
やはり、天神橋筋商店街についても、少し話をしておかなければならないでしょう。
十丁目とも呼ばれ日本で一番長い商店街とされています。天神橋北詰から北に長柄まで一丁目から十丁目まであるので「十丁目(じっちょうめ)商店街」という愛称で呼ばれているのですが、 八丁目以北も天神橋筋商店街であったのかは詳しくは知りません。
天神橋筋商店街で最初にアーケードを架けたのは天五商店街で、昭和32年(1957)のことです。
今は二丁目から六丁目までアーケードが架けられており、雨の日でも濡れることなく買いものをすることができますが、それ以前は、商店が向かい合わせに並んでいただけの商店街でした。
多くのお店では1階をお店にして、2階へは急な階段を上って、そこで生活をされていました。
アーケード建設にはいろいろと難問があったそうですが、アーケード完成のセールをはじめたときに突然と大雨が降り出して、天四や天六の商店街で買いものをしていたお客さんが一斉にアーケードの架かった天五商店街に流れ込んできて、大もうけ。苦労してアーケードを架けた甲斐があったと喜んだという話を聞いています。
スーパーニチイの発祥は天神橋筋四丁目商店街
そんなこともあったからか、天六、天四でも順次、アーケードを架けることとなりました。
天四、天五、天六の商店街は衣料品のお店が多く、今はイオンに吸収されましたが、「スーパーニチイ」も天四が発祥地でした。
洋服、アクセサリーなどの高級品を置くお店も多く、梅田の地下街ができたころに、梅田に移ったお店も何軒かあったようです。
今はみなさんも高齢となり、お店をやめていかれる方も多くなり、商店街はさま変わりしています。
昭和30年代から40年代にかけて流行った天五の夜店
商店街をしばらく歩くと「松井」という呉服屋さんと「MIC」という化粧品屋さんの間の細い通りに差し掛かります。
ここが天五と天六の堺になっていますが、これを東に曲がると「川島産婦人科」を通り過ぎて、南北の通りにぶつかります。
昭和30年から40年初頭には、この通りには夜店が並びました。「石井クリニック」の前の通りですが、月に2~3度だったと記憶しています。先ほど話しました東洋紡績の入口だった坂あたり、天五のアーケード東詰から北へカーブして現在の菅栄町西の交差点まで3〜400mほど続く夜店でした。輪投げ、ヨーヨー釣り、射的、うなぎ釣りと今でも縁日で見かけるものと同じだったと記憶していますが、小さかった私たちには大きな楽しみでした。
そのころ夜店は大阪中で日を変えて開かれていたようですが、天満の夜店もいつの間にかなくなりました。この通りの交通量が増えたからでしょうか。いつごろなくなったのか、記憶にありません。
今は夏の終わり、8月の終わりに「天五の夜店」として、商店街主催のイベントとして復活しています。
この通りを北に進むと、都島通に出ます。この通りの向こうは旧大淀区で、ここが旧北区の北の端ということになります。
これを西に、「馬場耳鼻咽喉科」を過ぎて、天六の交差点に向かうと、現在は「三井住友銀行」や「住まいの情報センター」の入る大きなビルがあります。
このビルの東半分にはかつて、「北市民館」と呼ばれた建物がありました。蔦の絡まる古いビルで、大正10年(1921)に地域の民生活動の中心となるよう、設立されたビルでした。
当時、このあたりから北はスラム街といった状況で、今でいうところの福祉事業を担っていたようです。
昭和58年(1983)、老朽化が進んだこともあり、役目を終えて撤去されました。
忘れてはならない天六のガス爆発
もうひとつ忘れてはならないことは、ここで起こった天六のガス爆発です。
昭和45年(1970)4月8日、地下鉄谷町線の工事中に都市ガスが洩れ、これが爆発を起こし、79名がお亡くなりになりました。
天六の交差点を南に曲がります。この南北のバス通りが、今は天神橋筋と呼ばれる道路です。
この道路には昭和41年(1966)まで市電が走っていたので、この界隈では市電がなくなってからもこの道を電車道と呼んでいました。また市電は之島をこえて堺筋を南下したので、路線名が堺筋線だったことや、昭和43年(1969)から営業を開始した地下鉄も堺筋線であったことで、この道は以前は堺筋と呼ばれていたように記憶しています。トロリーバスと呼ばれる電気バスも運行されていました。
天五の交差点で東に曲がりアーケードを歩くと、先ほど商店街に入った地点に戻ります。
このアーケードは天五の交差点から東西に100mほどですが、天神橋筋商店街で唯一アーケード同士が交差するところです
ここには昭和40年代初頭から4軒のお寿司屋さん(すし政、奴寿司、春駒本店・支店)が軒を並べ、天満寿司屋街と呼ばれ、天五の名物となっています。
主に夫婦橋〜天六交差点界隈の天満を語っていただいたが、半世紀の時間の流れは、天満のまちを変貌させるのにはじゅうぶんの時間だ。話は尽きない。