「ちゅらさん」の「こはぐら荘」
そうそう、今回、小浜島の「ちゅらさん」の家の「こはぐら荘」に10年ぶりくらいに行ってみたんよね。
10年前もそうだったが、すでにどなたかが住んでいるので、勝手に中に立ち入ったりすることはできない。でも、家の前をうろうろしたり外から写真を撮るのはOKなのだ。人は住んでいるが、登録有形文化財。
琉球家屋は門扉はないのだけれども、代わりに門の奥に石灰岩などでつくられた「ヒンプン」と呼ばれる衝立が建てられているので、絶妙に外から中が見えないようになっている。
「ちゅらさん」のロケ地になったから登録有形文化財に指定されたのではなく、伝統的民家が現在まで良好なかたちで残されていると評価されてのことだ。
主屋は、西表島から切り出してたキャーギ(イヌ槙)を建材にして建てられている。
屋根は、琉球赤瓦葺の目地漆喰塗り。
表門の内側には、サンゴ石灰岩の切石が積まれたヒンプンが建てられている。木材並みに精緻に加工して組み合わされており、当時の石工の技術の高さをうかがい知ることができる。
石垣がね、全長65メートルですと。わりに広い家なのだ。サンゴ石灰岩の野面積みが精緻で、近江・坂本の石工衆である穴太衆の琉球版かと言いたくなる。
「ちゅらさん」の家とは、そういう家だったのだ。
NHKの連続テレビドラマ「ちゅらさん」が放映されたのは2001年で、僕は、このドラマで沖縄熱に本格的に火がついて、沖縄本島、座間味、久米島、八重山各島、与那国、奄美諸島と毎年のようにアイランドホッピングをするようになった。(宮古にはなぜか縁がない)
毎年、琉球弧のどっかに行って、島から島へとわたっている。
来るときはウチに泊まれと言ってくれるオジィやオバァも、島々にたくさんいる。
僕の沖縄熱の原点は、40年近くまえの20歳のときの細野晴臣黒歴史のF.O.Eとジェームス・ブラウンがジョイントした沖縄公演を見にいったあたりにあるが、音楽ではなく島に目覚めたのは、やっぱ「ちゅらさん」だ。
「ちゅらさん」で、琉球の音楽や方言や食べものや文化や習俗や指笛やゆんたくやカチャーシーやチョンダラーやマブイやキジムナーに触れて、いいなと思って、平良とみさんのような琉球の芸能を体現している人にも触れて、琉球の人たちの明るさや朗らかさや哀愁にも触れて、たとえばそれらは喜納昌吉や登川誠仁や嘉手苅林昌やテルリンのような僕がそれまでに聴いてきた偉大なミュージシャンと一直線でつながっているのだということも実感できて、あのあたりのものが少しずつ僕の心と身体に沁みていった気がする。
ゴーヤチャンプルが一般に浸透したのも、この頃だった。
「紅龍&ひまわりシスターズ」が「上々颱風」にリニューアルして、JALの沖縄キャンペーンで「愛よりも青い海」が使われたのが1991年だから、沖縄熱は僕の中でも少しずつ高まっていて、それが「ちゅらさん」で爆発したのかもしれない。
琉球には、現代の都市生活者の僕らが失ったものがあるとよく言われる。それはなにか。
僕らナイチャーのルーツの古代人は、
自然や宇宙や共同体から独立して存在する「個人」というものはなく、目に見えないタマ(霊力)を通して、人間同士はもともとつながり合っていると考えていたようだ。
そういう感覚は、都市に住む僕たちからすっかり消え失せているが、琉球弧では、そのセンスが現代でもバッチリ生きていて、あの人たちからは「孤独」というものを感じることがない。なにかしらのものとつながっている人たちに思えて仕方がない。(沖縄ヤクザ抗争があったとて)
島はいいな。
あちこちに水平線があって、その向こうに世界が広がっているのが実感できるのが、いい。
ニライカナイや常世や補陀落渡海のようなアナザー世界ではなく、押しても引いても手応えのあるこの「世界」が存在しているのだと、肌で実感できるのが、いい。
「こはぐら荘」でしばし名残を惜しんで、その後、シュガーロードをチャリで駆け抜ける。
シュガーロードもまた、「ちゅらさん」の数々の名場面を生んだ舞台だ。