マジョリティの貧民の中から生まれた大統領
フジモリ元大統領が亡くなり、葬儀がおこなわれた。
24歳のとき、僕はバックパッカーの最後、ペルーで沈没していて、狭い日系人コミュニティでフジモリさんとも触れ合っていた。僕ら日系人コミュニティの人間は、親しみを込めて、ファースト・ネームで、アルベルトと呼んでいた。
その果てに、彼が国際花と緑の博覧会でペルー共和国代表として参加するはずだったところに大統領選に出馬する事態となり、僕がペルー共和国代表代理として日本に凱旋帰国ということにもなった。
それ以降は、アルベルトは大統領となり、センデロ・ルミノソによる日本大使館占領事件があったり、彼の政権が重大な人権侵害や憲法軽視などいろいろやらかしたのは、日本でも報じられた通り。
あたりまえだが、大統領になってからは、簡単に会ったり連絡を取り合ったりできる存在ではなくなってしまった。
彼が来日したときに僕は日本にいたけれども、そのときも、会ったりすることはできなかった。
大統領を退いてからも、刑に服していたので、無論、連絡など取りようがない。
当時、日系人というマイノリティから大統領が生まれた!と、日本のマスコミは喧伝していた。
でもそれは違う。
彼は、「貧民」という圧倒的なマジョリティから生まれた大統領で、そのように評価されなくてはならない。
当時のペルーは日本と違って圧倒的な格差社会で、1%の富豪が国の富の90%以上を握っていると言われた。
大統領や国の指導者が1%の富裕層から選ばれ続けた時代に、彼は、初めて、90%の貧民から選ばれた大統領だったのだ。
70年代から80年代にかけて、南米大陸に社会主義の風が吹いた。
お隣のチリでは社会主義者のアジェンデが大統領となり、ピノチェト将軍率いる軍部がクーデタを起こし、軍需政権が国を支配し、リベラルを弾圧していた。
ビクトル・ハラの「平和に生きる権利」は、そうした時代に生まれ、多くの人に歌われた。
ペルーでも、アラン・ガルシアという男が社会主義の精神に拠った改革の旗手として、人々の期待を一心に背負って大統領になった。
そんな彼もいつしか、宝くじの当たりくじはガルシアが買ったもののなかにしかない、とまで言われ、腐敗の象徴みたいに言われた。
ペルー共和国の背骨に当たるアンデス山脈に暮らすインカの末裔には、こんな諺がある。
世紀末には救世主が現れる。
しかしニセモノに気をつけろ。
本物の救世主は我らと同じ顔をしている。
アルベルトは、そのように登場したのだ。
我らと同じ顔をして。
僕にとっては、アルベルトとは、そのように登場した人として、心に刻まれている。
合掌。
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