「自分らしく生きる」の難しさ

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このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけに同年12月からブログを始めて、それ以降、700日以上毎日ブログ更新してきた、しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。

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【 今日のトピック:自分らしく生きる 】

「自分らしく生きる」ということが、近年叫ばれています。

でも、「自分らしく」って何なのでしょうね。

「自分らしくって何なのだろう」という問いも、腐るほど叫ばれてきたと思います。

「自分らしくって何?」

「自分らしくってよくわからない」

そう思う人が多いと思います。

僕自身は、「自分らしく生きる」なんて考えたこともありませんでした。

「自分らしく生きる」ためには、「自分」を知っていなきゃいけませんが、「自分」について考えたこともありませんでした。

そういうことを考え始めると、自分には何もないと自覚してしまうことがこわくて、無意識のうちに、「自分」について考えてこなかったのでしょう。

僕が思うに、人類というか、ほとんどの生き物は、「自分らしく」について考えるのが苦手だと思います。

なぜなら、そんなことを考えている余裕はないからです。

生き物は、みな、自分の生存を確保し、なおかつ、子孫を後世に残すことに駆り立てられ、それだけで一生が過ぎ去るからです。

ただただ、目の前の生を必死に生き、子孫を後世に残したら、それで一生はお終いです。それが「生き物」というやつです。

しかし、我ら人類は、そういった生き物の宿命から解放されました。

人類は、「社会福祉」を正義としました。

その結果、どれだけ生きる力が乏しい個体であっても、決して見捨てず、周りの人たちから「税金」という形で、少しずつお金を集めて給付したり、具体的なサービス(訪問看護や食料の現物給付)を提供したりして、命をつなぐ手助けをすることにしました。

だから、この世界は、生き物の歴史上初めて、「生存の確保」から解放されました。

どれだけ無力で、やる気がない人でも、他の人があくせく働いて稼いだお金から少しだけおこぼれを頂いて暮らすことができます。

「そんなのおかしい!」と批判するのは勝手ですが、この世界では、いつ誰が失敗するかわかりません。

「そんなのおかしい!」と言ってしまったら、自分が自分の生活費を稼げなくなった途端に死んでしまいます。

「自分の生活費は自分で稼ぐべきだ!」という言論は、自分で自分の首を締めているのです。

だって、最終的には、誰しも働けなくなり、税金に頼って生きていくほかなくなるからです。

今の時代は、働けなくなってから死ぬまでの期間が非常に長いので、自分で自分の生活費を稼げなくなる期間が必ずやってきます。

そのため、多くの人は「貯金」に走るのですが、しかし、この世界では、貯金がゼロで、なおかつ年老いて働けない人であっても、ぜったいに見捨てません。

年老いたせいで自分では生活費が稼げないとしても、生きていいのです。

それが、現代社会のルールです。これを否定することはぜったいに許されません。

「自分だけは自分の生活費を自分で稼ぐ!」という自分ルールを決めるのは勝手ですが、それは自分を苦しめるだけで、めちゃくちゃ非合理的です。

残念ながら、現代社会は、というか、現代の日本は、日本人全員を養うための最低限の生活費よりも、何倍も多くのお金が生み出されているので、金持ちたちから少しずつお金を頂くことによって、日本人全員を養うことが可能なのです。

この現実に抗うのも、本当に勝手ですが、さらに残酷なことを言えば、自分の生活の何もかもが税金を使わずに成り立っているわけないんです。

例えば、舗装された道路がなければ、生活は成り立ちませんよね?

道路に使われている税金も、主な原資は金持ちたちから徴収しています。

水道管や下水道の設備費用、ゴミ処理場、道路に設置されている信号機や街頭、川の堤防の工事費用に、震災からの復旧工事費用などなど・・・。

これらは全部税金から賄われています。

これらのお金はすべて、僕らにとってなくてはならないシロモノですが、一切、金銭的には負担していません。

金持ちたちが収めている膨大な税金が、こういったなくてはならない費用の出どころとなっています。

水道代や電気光熱費を払ったくらいで、「必要なお金は全部自分で払っている」なんて思うのは、残念ながら、傲慢です。

(僕も含めた)あなたが、水道代や電気光熱費を払ったくらいで、水道や電気・ガスを維持できるわけありません。

もっともっと、たくさんのお金が必要で、それを、金持ちたちの税金を原資として頂いているわけです。

かなりショッキングな話が続きましたが、僕としては、全く「ショッキング」ではありません。

おかげで、どれだけ貧しくても、死ぬことはないという世界が実現できているからです。

人類は、あらゆる生物の夢であった「安心安全」を、ほぼ100%に近いレベルで実現しているのです。こんなにすばらしいことはありません。

そんな世界が実現していることを、まずは正面から受け止めるべきだと僕は思います。

何がいいたいかと言うと、「働かざる者食うべからず」を捨ててください、ということです。

働かなくても、生きていけます。それがこの世界の真実なのです。

でも、それはそれで困ったことになります。だって、「働かざる者食うべからず」しか、生き物は知らないからです。

自分の命をつないで、子孫を後世に残すだけで一生を終えてきた生き物たちにとって、「命をつなぐ努力が必要ない」世界なんて初めてなのです。

命をつなぐことに必死にならなくても、生きていける世界なんて、知っている生き物は1つとしてない。

だから、「働かざる者も生きていい」を認めたくないのです。

「働かざる者食うべからず」の世界で生きていたほうが、本能に忠実でラクなんです。だから、必死で働きます。

そのほうが、本能に忠実だから、いろいろと考えなくてラクなので。

で、「働かざる者食うべからず」を他人にも強要します。だって、世界が「働かざる者食うべからず」で回っていないと、自分がバカらしいでしょう?

「働かざる者食うべからず」が本能に忠実でラクだとはいえ、ツライのです。だって、働いているから。

世界が「働かざる者食うべからず」で構成されていると思っているからこそ、ツライ仕事に耐えているのに、「働かざる者食うべからず」ではないことが明らかになってしまうと、ツライ仕事に耐えている自分がバカみたいです。

だから、他人に強要し、なるだけ、「働かざる者食うべからず」の世界を広く保ちたいんです。

この状態からなんとか救ってあげたいのですけど、自分で気づくしかありません。

なんかめちゃくちゃ話がそれましたが、結局、この世界は、「働かざる者も生きていい」で回っています。

そうなると、人類って、何をすればいいのでしょうか。

自分の命を明日につなぐことに心配がいらないとすれば、あとは、自分の遺伝子を後世に残すことが役目として残っていますが、ただ、自分の遺伝子を後世に残さなくても、自分の命を明日につなぐことはできます。

自分の遺伝子を後世につなぐのは、「人類(ホモサピエンス)」という種にとって必要なだけで、各個体にとって必要なわけではありません。

だとすると、結局、人類は、何もやることがないんです。

「やることがない」というか、「やらなきゃいけないこと」がない。だって、何もしなくても、命を明日につなぐことができるからです。

ここに直面しているのが、現代社会で、その結果、「自分らしく生きる」がスローガンとなりました。

「幸せ」も、同様にスローガンとなり、「幸せ至上主義」と言ってもいい状態です。

確かに、人類には、「幸せ」という感情があります。僕も、本当にそう思います。

僕にとっての「幸せ」は「喜び」と同義なんですが、「喜び」という感情は、非常に感動的で、心が温かくなります。

その感情は、僕にとっては、目指すべき対象としてふさわしいと思うので、個人的には、「幸せ至上主義」には賛同します。

(ちなみに、「幸せになる方法」は、『嫌われる勇気』という本に具体的に書かれているので、ご参照ください)

おそらく、「自分らしく生きる」は、「幸せに生きる」と同じ意味なんだと思います。

自分だけの幸せを求める=「自分らしく生きる」でしょうから。

でも、人類は、「幸せ」を求めたことはありません。

「幸せ(喜び)」という感情が用意されていることは間違いないのですが、それは、「命を明日につなぐ」とか「遺伝子を後世に残す」の道具でしかありません。

恋人や家族に幸せを感じることで、コミュニティが形成され、そのコミュニティが、人類の生き残りに役立ったからこそ、「幸せ」という感情を僕ら人類は会得しています。

順番が逆なんですよ。

幸せ→命をつなぐ、が本来の在り方で、

命をつなぐ→幸せ、という順番じゃない。

そりゃ、ちぐはぐになりますよね笑。

僕ら人類は、必死で命を明日につなげながら、その過程で幸せを味わっていただけなんです。

しかし、現代社会では、必死で命を明日につなげる必要がなくなったことによって、本来は、命をつなぐ過程で味わっていたはずの「幸せ」が到達目標になってしまっている。

そんなの、どうやりゃいいかわかりません笑。

よくよく考えると、世間には、必死で命を明日につないで、その過程で幸せを感じたがる人が多いこと多いこと笑。

確かに、進化の過程で培った本能的には、その順番が正しいのでしょうけど、今は違います。

必死で命を明日につなぐ過程で幸せになるのではなく、もっとストレートに「幸せ」を目指さなきゃいけないんです。

はあ、そりゃ、本能に忠実でいたら幸せにはなれないはずです。

まずは、『嫌われる勇気』を読んで、幸せの構造から勉強する必要があると僕は思います。

ただ、「幸せ」って感情なので、勉強だけで到達できるもんでもありません。

理性的に幸せを分析することで、幸せになれる環境を整備する。

そこで、幸せになれる瞬間をただただ待つ。

「自分らしく幸せに生きる」というのは、本当に難しそうです汗。

僕は、あんまり期待せず、ぼちぼちやろうと思います。

それではまた明日!・・・↓

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