海外旅行のトラウマとその克服

私の(記憶にある)最初の海外旅行は、はっきり言って最悪だった。
国が悪かったわけではない。楽しい思い出がないわけでもない。
強いて言うなら”両親と行った”ことがきっかけでもありトラウマでもあった。そう、トラウマになるには十分だったのだ。

トラウマ

当時の私は中学1年生。
今でこそ日本のそこかしこにアルファベットの建物が立ち並び、英語教育が早くて幼稚園からというのだから随分とグローバルになったと思う。
だが、当時の英語教育は小学校の高学年でやっとアルファベットを習い、中学でやっとThis is a pen.のThisは「これ」で、isは「~です、ます」で……と学んで、だいたい「私は東京出身です」とか、やっとcanとwill、5W1Hをかじるぐらいまでが中学校1年前期で習う内容だった。単語なんて100語も覚えていないんじゃないだろうか。
時間を聞きたかったら早口で「掘った芋いじんな(”What time is it now.”と聞こえる)」と言えばいい、なんて暗記で覚えているあたり、英語学習のレベルが致命的に低いとわかってもらえればありがたい。

さて、そんな中で家族4人でアメリカに旅行することになった。
サンフランシスコの大叔母に会いに行くついでではあったが、大叔母は日本人であり日本で会うときはいつも日本語で話しているため、海外にいるといっても”ちょっと遠くに住んでいる家族”と感覚的には変わらない。
父親がアメリカかぶれでビジネスレベルで英語はできているため、ホテルの予約や大叔母の家族との連絡はすべて父が行った。
だが他3人はというと英語は致命的にできなかった。
私は前述したとおりだし、弟は当時小学2年生で話せるはずもない。
アメリカに行く前にはことあるごとに「私だって話そうと思えば英語話せるし、英語なんて100点取るのが当たり前!」と言っていた母親も、アメリカ行きが決まったとたんに英語の話を一切しなくなったのもよく覚えている。(行って分かったのだが、私以上に英語に疎かった。本当にThis is a pen.のレベルで止まっていて、挙句「もう何年も話してないから忘れただけ」と言い訳していた。すぐばれるんだから噓なんてつかなきゃいいのにと思う。)

そんな中での不安まみれのアメリカ旅行だった。
先に行っておくと、アメリカ旅行自体はとてもよかった。観光名所を巡って、今までテレビの中でしか知らなかった景色を自分の目で見ることができたし、気候の違いや文化の違い、マーケットの商品一つに至るまで新鮮だった。
出発前に「お手洗いの場所がわからなかったらどうしよう」と調べていた”restroom”という単語もなんとか使うことで意思疎通ができた。
現地のアメリカ人の方はみんな優しくて、困っていると助けてくれた。
私も弟も時差ぼけが激しい上に、父の5分刻みの強行スケジュールで何時間も慣れない臭いの中での車移動でずっとグロッキーで、私に至っては満足に食事ができずに(拒否しても食べきれない量を両親が注文して目の前に並べられ、食べることを強制されたため)嘔吐してばかりで、お店にも迷惑をかけてしまって居た堪れなかったが、みんな心配して責めずにいてくれた。
3日目ぐらいに少し体調的に落ち着いてからの、ミステリースポットや、アナハイムのディズニーランドとハリウッドのユニバーサルスタジオは楽しく過ごすことができた。
問題は、そのあとだった。

ここまではどこに行くにも一応父がいたため、何かわからないことがあれば父を頼ることができたし、対外については大体父が間に入ってはいた。
最終日とその前日、大叔母を訪ねることになり、向こうの家族とも会うことになった。
年の近いはとこもいたが、大叔母以外、全員日本語を話せない。
殆ど、まったくだ。当たり前だ。大叔母以外は全員アメリカ人なのだから。
私と弟はてっきり父か大叔母の近くにいればいいと思っていた。
だが、私と弟は大叔母が出してくれたフルーツポンチを食べ終わるや否や、いきなり、はとこたちと共にリビングを追い出された。
「子供は子供同士で遊べ」だそうだ。日本語が一切わからない2人と一緒に放り出された時の不安と混乱たるや、小学生の弟が私にしがみついて離さなかったほどである。
それでもはとこたちは何とか自室を案内したりしてくれたのだが、向こうはネイティブの英語なので話していることはほとんどわからない。お互いを持て余し、子供四人が無言で座り込むだけの時間が過ぎ、夜に食事に行くことになった。
そして父からひと言「子供同士で遊べているな。車もパパとママと別でいいだろ?おじさんたちと話しなさい」。

……ここまで書いててわかると思うが、両親は”子供の面倒を見る”ということが致命的に苦手である。壊滅的と言ってもいい。
大人になっても”本当にこの人たち子育てしたんだっけ”と思うことがよくある(正直独身の私の方が子守はうまい自信がある)。
おじさんたち、とはもちろん日本語を一切喋れない、しかも大叔母との関係性もいまいち曖昧な中年のおじさん2名の車に乗るということである。
すでに弟は半泣きだったし、私も大叔母さんかパパの車がいいと主張したが、「日本語を教えてあげればいいだろう」と言いながら手で”うるさい”とあしらわれただけで、その後は一切無視されてしまった。
母親もわが身がかわいいので父親べったり張り付いて無視である。
二人で旅行したかったなら、最初から連れてこなければいいのではないだろうか。というか、日本語を教えるにも、ある程度は英語で説明できなきゃ無理だろと思う。
車内で『会ったことない身内”らしい”知らないおじさん』にマシンガントークで話しかけられる私と弟は完全に恐怖していた。
弟からは明確に「お姉ちゃん助けて」と言われた。そして、「困ったときのフレーズ」で何とか覚えていた言葉を口にしてしまったのだ。
”I can not speak English!”
……ものすごく失礼だったと思う。でもこれ以上は私も弟も限界だった。

その後の車内は無言だったし、申し訳なかったけど私も泣きたかった。
その後のレストランで、一度落ち着いたはずの体調が精神不安から悪化、ほとんど料理に手を付けないうちにトイレに駆け込もうとするも場所がわからず間に合わずに廊下で嘔吐し、アイスなら食べられるかと言われるも「何も食べたくない、ホテルで眠らせてほしい」と言い、一人気絶するようにホテルで眠った。
翌日は察してくれた(どうも両親は一切察してなかったが)大叔母の計らいで手作りの海苔巻きを食べて少しだけ元気を取り戻し、夜は中華を食べて完全回復した。翌日は一日大叔母が付きっきりでついてくれて、私は出会って2日目にしてやっと大叔母とまともに会話することができた。

これが、私のトラウマだ。
楽しい思い出もあったのに、つらい思いをした時間の方が長くて、英語が出来なければ海外に行く資格がないと思ってしまった理由だ。
その後もハワイには行ったものの、一人で行動することはなかった。
このトラウマが払しょくされるのは、このアメリカ旅行から15年たってからだった。

棚からイタリア旅行

その後、私は両親の意向で英語学習に力を入れている高校に進み(いつかハワイの観光会社に勤めさせてハワイ旅行三昧したかったのだそうだ。嫌だったのでことごとく留学も拒否し大学受験コースも別の方面を志望して「駄目なら高校を中退する」と言ったら折れたが。)、それなりに英語に囲まれる生活を送った。
大学は好きな事をやったので英語からは離れていた。就職した最初の会社も英語とは無縁だった。洋楽は好きでずっと聞いていた。

そして2社目の時。
資格なしの契約社員で弱い立場の私は、安い給料(手取り11万)で上司の仕事を押し付けられていたが、やらねば会社の信用に関わるので真面目にこなしていた。
本社の担当と二人で結構大きなプロジェクトを進めて、何とか完遂させたが、結果は押し付けていた上司+聞こえないふりをしていた上司2名の給料が上がるにとどまった。契約社員なんてそんなもんである。
だがさすがに一部始終を見ていた工場長が哀れに思ってくれたらしかった。というか、多分ほかの社員からも「そりゃないぜ」と言ってくれたんだと思う。押し付けていた上司は会社に来てずっとおにぎりかじりながらスマホゲームをしているような奴で、数年後の私の退職後には未成年に手を出して豚箱に入った(金の力で割とすぐ出たらしいが)ので、まぁ豚箱域になる前の当時から言っても人間的に終わっているのである。そんな奴の給料が上がるのは、他の社員からしても納得いかんだろう。

なので、好成績を残した上位の会社から正社員1名が参加できるいわゆる”ごほうび”旅行ツアーに、契約社員の身でありながら参加させてもらえることになった。
10日間のイタリア旅行である。しかも、経費のほとんど(飛行機代・食事代・ホテル代・交通費)が親会社持ちという太っ腹具合だった。同じ旅程で行こうとすると一人最低100万はかかりそうである。
これを断れるはずもなかった。私のバケットリストには「イタリアのヴェネチアに行く」が入っていたのだから、こんな形でかなうとは思わなかった。
すぐにパスポートを取り直し、英語学習復習とイタリア語の勉強をした。

正直不安はあった。
せっかくのイタリア旅行で、トラウマを増やして帰りたくはなかった。
飛行機での受け答え、よく使うフレーズ、迷った時にどうしたらいいか……
ちなみに今のように翻訳機の貸し出しなどもなく、翻訳サイトも数えるほどで、@nifty翻訳とかGoogle翻訳が目も当てられないほどひどい時代である。
「All you need in this life is ignorance and confidence, and then success is sure.」(人生で必要なものは無知と自信。これで成功は間違いない)って入力したら「すべてのあなたが必要とする無知と勇気です。そしてその時に成功します。正確」とか出てくるようなイメージ……だから全部ノートに書きだしてお守りみたいにしていた。
他にも、向こうでのチップはいくらぐらいが妥当なのか、失礼に当たる行動やハンドサインがないか、事前準備をしっかりしていった。

もろもろの細かいことは省こうと思う。
結果だけ話すと、ものすごく楽しかった。
もちろん楽しいだけではなく、同行者は母親を煮詰めたような”虚栄心の塊”みたいな女性がいたし、自身でも色々とやらかしたところもあった。
でも、それを跳ねのけるぐらいには、楽しかったのだ。

結論から言えば、私の英語は十分通じたし、なんとイタリア語も通じた。
(とはいえ、イタリア語は”Si”と”No”以外で返されるとまるで分らなかったので”Ah…Sorry. English Please.”と言い直す場面があったので、付け焼刃ってあんまり役に立たないなぁと痛感したりもした)
英語が不安だからと合わない同行者と一緒に行動するメリットがなかったので、3日目くらいからは自由時間に単独で行動できていたし、好きなものを安く買うこともできた。
きちんと防犯対策していたことでジプシーに群がられることもなかったし、心に余裕をもって旅行することができた。
当たり前だが日本語ができるスタッフなんてどこに行ってもほぼ皆無なので、すべて英語でやり取りをする。虚栄心女が通訳スタッフを侍らせていたので、途中私が通訳をする場面もあったぐらいである。若干イタリア訛りがきつい英語は聞き取りづらい場面もあったが、まったく意思疎通できない場面というのはなかった。

なんだ、結構通じるじゃん。と思ったのである。

高校時代までに基本的な文法を勉強したり、洋楽を聞いて意味を調べたり、事前準備していったことは、無駄ではなかったのだ。
怖い怖いと思っていた気持ちが、一気に晴れていった。
こちらがしっかり丁寧に話せば、相手もゆっくり平易な言葉で説明してくれる。そこには確かに思いやりがあった。
はっきり言って、高校時代より今の方が英語力は低いと思う。でも、がちがちに正答しなくても、相手に失礼がなければいいという心構えで聞けば、思っている以上にすんなりと受け入れることができた。
さすがに中学1年の学力よりは成長しているし、使う単語なんてそこまで多くない。中学1年の時に自分の能力の120%を出さないといけなかった場面で、今の英語力なら60~80%で何とかなる。
これが明確に自信になったのだ。

海外旅行、正直まだ”最初から最後まで全部ひとりで”というのは一歩踏み出せないでいる。(お金もかかるし、女性一人ということもあるので……)
だが間違いなく、この10日間は私の人生の分岐点だった。
その後、私はオランダ・ベルギー・フィリピンそれぞれのツアーに単独で参加することになる。もちろん2名以上で行くよりは(おもにホテル代が)高いが、気兼ねなく行動できるメリットの方が大きく感じた。
ちなみにイタリア以降”同行者が変”だったことはない。

なお、ただ行って食事して観光して帰ってくるだけなら、海外に行くより下手すると国内の飛鳥Ⅱクルーズやニセコに泊まる方が高い。
海外旅行は趣味としては高額かもしれないが「一度は行くべきだ」と心の底から自信を持って言える。
その国のことは、現地で自分の目を通じてみないとわからない。
その国のことは、現地で自分の耳で聞かないとわからない。

イタリアは本当に食事がおいしかったし、歩けば歴史のある建物ばかりが並んでいる。
アジア人に対して面倒そうに応対する人もいれば「日本好きだよ!」と親切にしてくれる人もいるし、夏はからりとして夜になっても空が明るく、音楽や”何でもない時間”を大切にする人がたくさんいた。ローマは中国人と日本人ばかりで海外に来た気がしなかったけど、田舎は本当に良かった。トスカーナ、特にモデナは死ぬまでにもう一度行きたいと思う。

オランダはがらりと変わってシンプルだけど丁寧な暮らしをしているイメージだ。とても牧歌的で、シンプルだが野菜がおいしい。
スタバでフランス系(訛りが完全にフランスでした)黒人女性に差別対応されたのもオランダだったけど、日本人観光客のマナーがなってないのもオランダが一番だったかも。結局一回差別があったきりで、基本的にみんな優しくて上品だった。
この頃には一人で買い物も気兼ねなくしたし、食事はガイドさんと一緒に食べることが多かったものの、”何時にどこに集合”というのだけ守ればよかったため、買い食いやウィンドウショッピングも大いに楽しんだ。

ベルギーはオランダに比べると牧歌的というよりは厳格な雰囲気があったけど、お店の人には良くしてもらった。複雑な注文を根気強くきいてくれたレストランのウェイターさんには本当にお世話になった。
ベルギーはオランダへの通過ついでだったので半日しかいなかったが、もう1日いたらもっといろいろ分かったかもしれない。

通過と言えば、カタールの空港とフランスの空港もほんの少しだけ滞在した。
フランスはイタリア旅行の際に寄ったのだが、空港内でマカロンが買えたし、とてもおいしかった。ヨーロッパに行って都度思ったのは「日本で食べるのとは違う」である。パンも全く味が違い、嚙んだ瞬間に口の中に小麦の花が咲くようなので、ぜひおすすめしたい。
帰国後しばらくロスる。
カタールは空港内を移動中にどこまでも広大な砂漠を見て、なんだかいたく感動した。本当に砂漠だ、と思った。いや当たり前なのだが。なんだか心が風に乗るような、一気に異国の感じがしたのだ。
カタールは物価が高かった。石油産出国で空港にいるのは金持ちばかりだから、ということのようだ。
荷物になるので買わなかったが、たばこや香水など高価な嗜好品やブランド品が並んでいた。
ちなみに油断していたらここでボられた。日本人って騙しやすいんだなぁと再確認した。(日本円にして1000円程度で大した額ではなく、計算が遅れて気づかなかったしクレカ引き落としだったため、面倒くさくてそのまま泣き寝入りした)
そばにSPを4人ほど付けたアラブのどこかの王子様のような人も何度か見かけた。通過しただけだったが、完全に異国だったし、知らない世界だったように思う。
ただ、本当に物価が高かったので、何もせずに時間をつぶすことにはなった。いくら盛り放題でも朝食に5000円は出せないなぁ。

フィリピンは完全に価値観が変わった。ちなみに行ったのはセブだ。
旅行自体はすごく楽しかったし文句なしだった、人も優しかったし親切だったし、食事もおいしかった。衝撃を受けたのはインフラと治安。悪いわけではない。どちらも日本がよすぎるのだ。
土産代も含めトータル27万の旅行だったが、安全のために地域最高級のホテルに泊まった(というか泊まれるのだ。物価安いんだなぁ)し、移動は貸切中型車だった。戦後日本のような貧民窟がそこそこあり、病気持ちの野犬や野生生物や物乞いがいるので、日本人が歩くとそこそこ目立つのだ。彼らは別に危険人物ではないし、必要以上に恐れることはないだろうが、何かあってからでは遅い。
離島に向かうクルーザーの乗り合い所には本物のサブマシンガンを持った兵が2人立ち、横にはジャーマンシェパード。密航者を止めるためにいるそうだ。あんまり見ちゃいけないとは思いつつ、あまりに日本とは違う世界に、改めて日本の治安の良さを痛感することとなった。

これらはたぶん、行かなければ知らなかったことだ。
肌で感じなければわからないことはある。
海外旅行は行けるときに行くべきだ。
そう思えるようになったのも、あのイタリア旅行があったからだろうと思う。

嫌な思い出とトラウマのある最初の旅行、すべてがひっくり返ったイタリア旅行。
そのどちらも、忘れられない旅行だった。

いつかもう一度、今度は一人で、アメリカに行こうと思っている。



#忘れられない旅

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