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自分にとって「いい写真」ってなんだろう

「いい写真を撮りたい!」
そう思って一眼レフを購入した20代。

あのころから14年くらいたちましたが、当時と現在では「いい写真」のニュアンスが違っています。

今回は最近いい写真だなと思うものについて、ゆっくり言語化できればと思ってます。苦手だけど、頑張ります!


みんなに「いいね」って言われたい期


始めたころの写真、なぜか魚眼で撮ってたw色ヤバイ…

14年前の私にとっての「いい写真」は、「みんなにいいなぁ!って評価されたい写真」でした。承認欲求ですよね。やばいやばい。

勿論承認欲求は今もありますが、昔のほうが強かったです。Instagramもなかった当時は写真投稿サイトに掲載して、「いいね」をもらえるとテンションが上がってました。

逆に「いいね」をもらえないと、「なんでだ」「この写真の良さが伝わらなかったのかな」とか超自信過剰な考えもしてました。若気の至りだと思って勘弁してください。

(今考えると、腕も全然だったし。本当に反省!)

完全に視点が他人の評価になっていたので、正直、撮影が義務になっていて全然楽しくありませんでした。「〇〇に行って写真を撮ったら評価もらえるかな?」とかね。それが続くと義務感が増すんですよね。

そんな積み重ねが原因で、カメラを持ち出さない年が結構続きました。

意識が少し変わった期


東京タワーに行ったとき、自然な感じで撮った一枚。

またカメラを持ち出した時期は、今の妻と会ってからです。

妻は全くカメラを操作しません。ただ、いろんなところに一緒に出掛けてくれました。

その行く先々で、最初はスマホで写真を撮っていたんですが、折角だしカメラで撮ろうかなと思ったのがきっかけで、また重いカメラを持ってあちこち歩くようになりました。

当時の「いい写真」は、「妻と一緒の瞬間を大事に撮った写真」でした。瞬間を大切に、思い出を記録するものですね。この時に他人の評価軸から自分の想い軸になりました。

何気ない瞬間を残したい期


仲間と東京でフォトウォークをした時の一枚。生きてる瞬間を撮りたい。

そして今ですが、「いい写真」は「自分や周りの人が生きている、生活している瞬間を切り取った写真」だと思っています。ざっくりw

周りの人たちっていうのは、家族やその街で出会った人などめっちゃ広義です。誰かが生きていて、歩いていて、感情があふれている、そんな瞬間を風景の一コマとして収めたいなと思っています。

これまでは風景の中に誰も写ってないタイミングを狙って撮っていましたが、何となく無機質というか寂しいというか、違和感があって好きではなくなってきていました。花だけではなく、それを撮っている周りの人も写したら「なんかいいかも」と感じるようになりました。

人の表情やしぐさから、気持ちが伝わってくる写真が好きになっています、現在ね。


筑波山に仲間と登った時。休憩の一幕。

何か感情が伝わってくる写真が撮りたいな、と最近思っています。


息子が幼稚園に出かける直前。この背中からなにか感じるかな。

さいごに

私は今、できるだけ自然体な風景や人を撮っています。それが好きだなと感じているので。

勿論、これから撮影をする中でまた転換することがあるかもしれません。それも楽しみです。

写真には正解がないと思っていて、それが楽しいと感じている日々。そんな日常をこれからも写真にしていこうと思ってます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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