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コンプレックスだらけの私は、花束みたいな恋をしたを見に行けない。
私には好きな人がいる。その人は私のことを好きだと言ってくれていて、遠距離ながら大事にされているなと感じる。
自惚れているうえに調子にも乗れるほど、不安にならないくらい好意を伝えてくれる。
それでも好きな人と過ごす時間のなかにすごく嫌な瞬間がある。理想とかけ離れた自分がはっきり自覚され、苦しくなる瞬間。
私の好きな人は、私の理想の人だ。
例えば顔がかっこいいとか背が高いとか、高収入だとか高学歴だとか、いわゆるスペックの話ではない。(それらの面でもかなり上位で十分すぎて劣等感しかないけど)
生き方や考え方、知識量など。どちらかというと内面的な話。特に「好きなことをやっていて、好きなことのために努力している」ところ。
これがとても厄介。
私には生きる目的のようなものがない。そんな自分がすごく嫌いでコンプレックスで「今死ぬのと50年後死ぬのの何が変わらないんだろう」とよく考える。生きていくためにあまり好きではない仕事をして、生きるためのお金を払ってたまに小さな幸せを作って、死ぬのを待っている。
本当は苦しくても辛くても波乱の人生だとしても、好きなことをやって自分のために生きて死にたい。
彼はそうして生きている。少なくとも私の目に映る彼は。
あまり詳しく書くことはできないけど、やりたいことをやるために働いて葛藤しつつも好きなことを貫いている。
私の理想の生き方。
花束みたいな恋をしたの予告映像をみて、絹と麦みたいだと思った。「私たち2人が」ではなく、「私ひとりで考えていることが」だ。
変化したわけではない。元々違っている。加えて付き合いも短く同棲もしていないし、学生時代から付き合っていた訳でもない。
だけど根本的などうしようもない種のようなものを、私は持っているんじゃないか。きっと映画を見たら自分のコンプレックスが更に鮮明になるんじゃないか。
ひとりで見ても別れを決断してしまいそう。私たちは合わないから上手くいくはずないんだと思い込んでしまいそう。
この考えで好きな人の気持ちを完全に否定してるのも、とても失礼なことをしているのもわかっている。伝えたら怒られるどころか失望される可能性もある。
それでも劣等感は根深く簡単に否定できる気持ちじゃない。
だから私は私のコンプレックスを克服しなければいけないんだ。
自分のことを好きになるために。私を好きだと思ってくれている彼を否定しないために。
それが私なりの恋愛の仕方であり、向き合い方である気がする。
そしたらきっと2人で、お家でゆっくりしながら花束みたいな恋をしたを観れる。