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アーモンドアイとサートゥルナーリアとノーザンファームと

すっかりお久しぶりの投稿になりました。ご無沙汰しています。LuckyStrikerです。

投稿してなかった間にも毎週のように競馬に負け続けていた僕ですが、それはさておき色々なニュースが競馬界を飛び交ってましたね。

インティが6連勝でフェブラリーSを制して幕を開けた今年のGⅠ戦線。
高松宮記念ではとんでもない高配当が飛び出し、大阪杯はアルアインが復活Vを果たしました。


クラシックは牡馬牝馬ともに年明け初戦のサートゥルナーリアとグランアレグリアが制すことに。
海外を見てもアーモンドアイがドバイターフで完勝を飾り、マテラスカイはドバイゴールデンシャヒーンで歴史的2着。オーストラリアではクルーガーが連闘でウィンクスの2着に入るという暴れっぷり。
大きなレースだけでも濃密な出来事が毎週のように起こっています。

一方で数々の名馬との別れや戦線離脱など悲しいニュースも。
今一度競馬が競走馬という生き物を扱っていること、レースにたどり着くことが容易いことではないことを思い知らされました。

閑話休題。タイトルに戻りますが、今週こんなニュースが飛び出しました。

「サートゥルナーリア、凱旋門賞登録」
「アーモンドアイ、凱旋門賞見送り」

今や日本競馬界の若きエースまで登り詰めんとばかりのサートゥルナーリアが世界最高峰の舞台、凱旋門賞への参戦を検討したと同時に、現日本競馬界のチャンピオンホースであるアーモンドアイが早くから表明していた凱旋門賞参戦を見送る決意をしたというニュース。

本来であればオーナーも違えば厩舎も違うこの2頭のニュース。大きく関連付けられて話されるものではないはずなのですが、こういった意見を目にすることが。

「これはノーザンファームの使い分けだ」

そう、この2頭の共通点はノーザンファーム生産馬ということ。ノーザンファーム生産馬がGⅠを席巻しだしてもうしばらく経ちますが、何かある度にこのような意見が出るのも多くなりました。
こういった意見が真実か邪推かは置いておいて、一競馬ファンとして何とも言えないこの感情を少し吐き出させていただきます。

まずそもそものサートゥルナーリアとアーモンドアイの凱旋門賞参戦について。
これは両方英断なのではないでしょうか。同じロードカナロア産駒で母母父に欧州系の血統を持つ2頭ですが、過去5年で4頭の勝ち馬を出しているサドラーズウェルズを持つサートゥルナーリアと、片や4年前のゴールデンホーンに少しだけ入っていたヌレイエフを持つアーモンドアイなら、確かにサートゥルナーリアの方が可能性が大きいように感じます。

また、アーモンドアイはJCが顕著ですが日本の早い馬場で圧倒的なパフォーマンスを見せる馬。実際二連覇中のエネイブルを管理するゴスデン調教師もこのようなコメントを残しています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190417-04170409-nksports-horse
一方のサートゥルナーリアは未だ国内でしか走っていませんが底の知れない部分を感じさせます。この意見は些か偏見が過ぎますが、これからのレース次第では確証に変わるかもしれません。

薄ーい理由ですがそういうわけでこの2頭の陣営の判断は正しいのではないかと僕は思います。

さて問題はノーザンファームの使い分けという部分です。これが厄介なもので、ここに競馬の"スポーツ"と"ビジネス"の大きな乖離があるように思います。

競馬を純粋なギャンブルだと認識している方はきっとあまり意見はないのかなと思います。誰が乗ってどのレースに出ようと自分のお金が増えればそれでいいという考えだと思うので、そこに生産者の思惑なんてものはただの予想の一ファクターでしかないわけです。

ところが競馬にスポーツという面も感じている人はそうはいきません。なぜなら競馬に求めるものにお金だけでなくロマンやドラマ性も含まれ出すからです。そうなると例えば零細血統が一流血統を打ち負かす図式であったり、ずっとコンビを組んでいた馬とジョッキーが遂に大きなレースを勝つ様とか、そう言った劇的なものを欲するようになります。それを求めている人にとって勝利だけを求める生産者の思想は時として悪に映るでしょう。

では、勝利だけを求める生産者の思想は本当に悪なのでしょうか。

ノーザンファームは「世界に通用する強い馬作り」をコンセプトに掲げ今日まで試行錯誤を繰り返してきました。その結果は火を見るより明らかでこの数十年で日本馬のレベルは著しく上がり世界各国で様々なレースを制しています。
なにより馬産だけでここまで大きなビジネスを成り立たせている組織です。血の滲むような努力を重ねてきたことでしょう。

そんなノーザンファームからすれば最も求めるものは勝利という結果です。もちろん当然です、そのために積んだ努力です。
勝利がノーザンファームという組織の価値を高め、それが明日の努力に繋がる。その結果を出すためなら取れる手は全て取る。至極真っ当な企業戦略です。

はてさて、ここで浮き上がってきたのがロマンチストのファンとリアリストの生産者という構図。ここに他のスポーツにはない乖離が発生しているわけです。

例えばサッカーや野球などで考えてみましょう。ファンとチームが求めるものは一致して試合の勝利です。時にドラマチックな展開が語り草になることはあれど、毎回それを求める人はいないでしょう。

一方で競馬ではそれが発生する。なぜか。一番注目されるのが馬だからです。他のスポーツで一番注目されるのは選手という人です。人だから本人に聞けばほとんどが解決します。でも競馬は違う。人の言葉を理解しない馬だから周りの人に聞くしかないわけです。それが周りの関係者への情を生みます。

競走馬に対する情と関係者に対する情。情をかけられる範囲が多いから、他のスポーツよりもドラマチックな結末を期待してしまう。これがロマンチストのファンとリアリストの生産者が相容れない理由でしょう。

実際フェブラリーSを制したインティは山下恭茂牧場という小規模牧場の生産馬。そして騎乗するのはレジェンド・武豊騎手。インティという馬自身の強さに加えて下克上を果たさんとする小規模牧場とGⅠの舞台から遠ざかって久しかった武豊騎手と、簡単に見てもファンは三方向から情をかけられる。こんな例が競馬はごまんとあるわけです。応援できるアプローチが多いことこそ競馬の魅力ですが、その競馬をより盛り上げるためにひたすらに努力を重ねたノーザンファームが悪者として扱われるとは何とも皮肉なことでしょう。

もちろんノーザンファームが言わば必要悪となっていることで、下克上の図式がわかりやすくなっているという点もあるでしょう。ある意味ロマンチストのファンに対する需要は満たしているわけですが、どうしても僕がそう割りきれないのはノーザンファームも人であるということです。

この記事でずっと言い続けているようにノーザンファームを含めた社台グループは何十年も昔から強い競走馬を産み出す努力を重ねてきました。名門牧場が数多くあった時代から頭ひとつ抜けよう、更にその先に進もうとたゆまぬ努力を続けてきたわけです。その結果が必要悪だというのはあまりに失礼な気がしてならないのです。

本来こういった文を書くときは着地点をどちらかの主張に振らねばならないのでしょう。ただ、どうしてもこの件に関してははっきりと振ることができないのです。ただ一つ言うのであれば強者も人であると、何もせずその座に辿り着いたわけではないということを今一度認識する必要があるのかもしれません。

長文も長文になってしまいました。ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。

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