
「死にたい」気持ちは悪なのか。その言葉との付き合い方。
たとえば僕が凄腕の外科医だとして、
自分が全身全霊をかけて救った患者がその後みずから命を絶ったら、
そうかそれがあなたの選択かと割り切るだろう。
自分がやったことにも後悔や罪悪感は無い。
今回は「死にたい」という気持ち、言葉について。
恥ずかしいことがあったときに冗談で「死にたい」と言う人もいるが(バカなことだ)、本気で死にたいと言う人も居る。
それは、そのときの気分であったり、病気のせいであったり、さまざまな理由があるだろう。
1日で気持ちが変わる人もいれば、何年もそういう気持ちと付き合う人もいると思う。
だいたいこういう話題になると「生きることは素晴らしいよ」「今は辛いかもしれないけど生きてたら絶対いいことあるよ」「みんな幸せになるために生まれてくるんだよ」「君をいじめた人にはバチが当たるから」「悲しいこと言わないで。私はあなたに生きてほしいよ」などという綺麗事を言う人が多いのだが、僕は大前提としてこう思う。
「死にたいと思うことも、死んでいくこともその人の勝手」だと。
ただし、
それがその人の本当の本心である場合に限る。
自分の命,自分の人生だ。
自分の満足と納得がなによりも大事。
こないだ嫌なことがあったとか、精神的な病気の影響とか、そういうことなら、気の迷いである可能性が十分あるので、辛くても生きてみる価値はある。
死にたいと言い続けながら死にきれないような人は、これに当てはまるのではなかろうか。
それと、言うまでもないが、試みたが未遂で終わってそこで「生きたい」と思うような人は生きたほうがいいだろう。
物語の世界でよく、男気溢れる身勝手なキャラから「お前のその命、俺のために使え」と言われて生にしがみついてみたら、たくさんの仲間が出来ていつの間にか生きることが楽しくなっていた… みたいな話があるが、
あれも、本心では生きたいと望んでいたから美談になるわけだろう。
一時的に失望・絶望していただけだ。
目を覚ましたら「あ、俺生きたかったんだ…」
ということに気づいたというだけのこと。
ともかく、人間、気の迷いというのは往々にしてある。
それに割と心変わりもする動物だ。
とことん自分の心からの本心に向き合って答えをだす価値はある。
そもそも人間は弱い。
宗教やスピや幸せノウハウが何故無数にあるのか。
売れ続けるのか。
それが無ければ、生きる意味を見失う人が沢山居るからである。
大衆のなかに居場所を見出せなければ、
正気を失う人が無限に居るからである。
だからまず、
人間を強い生き物と思わないことだ。
人は案外ちょっとしたことで壊れる。
生きることに絶望する。
金や、大事な人を失ったら無敵の人になったりもする。
この世から酒がなくなったら死んでしまうような人も沢山居るんじゃないか?
仕事で大失敗をして、明日がこなければいいなんて切に願うこともあるだろう。
根本的な考え方・感じ方だって、
家庭環境の影響で簡単に固定化される。
もろい生き物なんだ。
むしろやけにキラキラした人生観を振りまいて常にニコニコしてるような人に限って、堕ちるときはどん底まで行ったりするものだ。
だから、「生きている人は強い」「ポジティブなことを言っている人は強い」なんて簡単に思わないこと。
「死にたいと思う自分は弱いんだ。ダメなんだ」なんて安直に思わないこと。
強い弱いとか単純なことではない。
本能・欲・満足・状態の問題なんだ。
生きる意味とは
生き物というのはなんのために生まれてくるんだろう。
宇宙の波動がどうたらとか、幸せになるためとか、
もちろんそんな理由ではない。
それは人間の都合のいい願望。
この世界がたとえ上位存在のシミュレーションだったとしても、
生き物は、生きるために生まれてくるのだろう。
犬も猫も、鳥も、アリもセミも、生きるために生まれてくる。
生きるという目的はあるが、そこに特に理由はない。
だが同時に、生きることは自然ではあると言える。
天寿を全うせずに食われる個体も居るだろう。
食うために育てられる個体もいるだろう。
だがみんな生きようとして生きている。
幸せとか不幸とかいうものは、人間の後付けである。
だから『幸せ』なんてものを生きる理由にするのはナンセンス。
ましてやそれを他人に押し付けるなど。
だが同時に、自然なことであるからこそ、『生きる』をベースに考えてみる価値はあると言える。
生きる理由なんてもんは、
『生きたい』
『満たされたい』
という欲求に帰結するし、
それで十分だ。
「生きるからには幸せにならないと」
なんて考えていたら、重苦しいし、
「親への恩返し」なんてのを生きる理由にしても、
ちょっとした人生の失敗で自分を責めることになるだろ。
人間という生き物を神聖なものに見立てる必要も無い。
生きる理由なんて本能とエゴで十分だ。
あまり生きることのハードルを上げないほうがいい。
疲れたなら休んでいいし、
食べたければ食べればいい。
休んでダラけて、悩んで、
動いてみるかぁと思うなら生きてみる価値はある。
自分の命、自分の人生だ。
どこの誰がなんと言っていても、
この世の理も、人生の本質も変わらないじゃないか。
命の本質を見つめ、
徹底的に自分のほんとうの本心と向き合うこと。
死にたいと言っている人が身近に居たら、
その人が自分の本心と向き合うのに付き合う。
その人が徹底的に向き合い続けたその結果として、スイスに行こうというのなら、羽交い締めにして止める資格はない。
(これ一読の価値あり)
向き合うこと、
付き合うこと。
せいぜいできるのはそれくらいだし、
それに尽きると思う。
意味がないからこそ、
命の意味は、自分で決めるものだから。
かくいう僕は、これまでの人生において選択肢として死がよぎったことは何度かあったが、
20年以上、徹底的に自分と向き合い考え抜いた結果、今ではもう「生きる」と決めている。
その甲斐あって、しんどかろうがムカつこうが、
生きることが好きだと心から思えている。
俺の人生だ。勝手に楽しませろと。
そして、死にたいという人が身近にいた場合、「この人、ほんとは生きたいんだろうなぁ」と確信したときには「生きてみれば」と言ってみることにしている。
(それで一度、友達の死を思いとどまらせたこともあった。あれは、それがその人の本心だったということだろう。そういうこともあるからね。)
薄情なことを書いてるが、
人が死ぬのは悲しいし寂しい。
ただそれと人間それぞれの意思とは別だという話だ。
人間はちょっとしたことでグラつく。
一時の気分でない自分の本心と向き合い続けることは大事だろう。
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