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モーツァルトの"驚異の耳"を証明する《ミゼレーレ》伝説

※本稿は『知ってるようで知らない モーツァルトおもしろ雑学事典』(共著、ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、現在絶版)で執筆した項目を、出版社の同意を得て転載するものです。

神童モーツァルトのエピソードは数々ありますが、ヴァチカンでの出来事ほど、神童に相応しいエピソードとして語られてきたものはありません。

1770年4月11日、モーツァルトはヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に赴きました。敬虔なカトリック信者であった父レーオポルトにとっては、念願のヴァチカン詣ででしたが、教皇庁内のシスティーナ礼拝堂は、音楽家として一度は行ってみたい場所だったことでしょう。なぜなら、グレゴリオ・アレグリ(1582~1652)が1638年に作曲したと言われる《ミゼレーレ》という曲をこの礼拝堂において聴くことが大きな目的だったと考えられるからです。この作品は当時、システィーナ礼拝堂で聴く以外に、知ることができない門外不出の秘曲として有名でした。聖歌隊員には、楽譜を外に持ち出したり、その場で楽譜を写し取ったりすることが禁じられていて、決まりを破った者には破門の罰が与えられたのです。

モーツァルトが《ミゼレーレ》を聴いたシスティーナ礼拝堂

ところが、モーツァルトはその禁を犯してしまいます。聖歌隊の演奏を聴いて、《ミゼレーレ》を覚えてしまい、後で楽譜に書き留めたのでした。 まさしく、神童らしいエピソードです。 もっともこの時代、《ミゼレーレ》は、手書きの楽譜のかたちで他にも伝えられていましたし、この出来事の翌年には、イギリスの音楽史家バーニーによって楽譜の出版もされるような状況でした。 ですから、モーツァルトが事前に楽譜を見た可能性がないとは言えません。

また、ナンネルの回想によれば、 モーツァルトは別の日に楽譜を帽子に隠して持っていき、 間違いがないか確かめた上で、楽譜を完成させたということですから、一度ですべてを覚えたわけではないようです。とはいえ、《ミゼレーレ》は、9つのパートからなる作品です。 これを聴き取るには、かなりの能力が必要だったことは確かでしょう。

次のような話もあります。 レーオポルトの手紙によると、当時《ミゼレーレ》は、作品自体よりも演奏の仕方のほうが重要でした。シュリヒテグロルやニーメチェクによれば、あるときモーツァルトは、演奏会でクラヴィーアを弾いて《ミゼレーレ》を歌うことになりましたが、礼拝堂でこの曲を歌っていたカストラート歌手のクリストフォリがその演奏に感嘆したといいます。モーツァルトは、事前に楽譜を見ていたとしても、そこからは解らない演奏の仕方をすでに体得していたわけで、やはり非常に優秀な耳の持ち主だったと言えます。


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